ベルリン・フィルと日本人奏者 ― 日本人女性・男性を織り交ぜた8人の軌跡
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(以下「ベルリン・フィル」)は、クラシック音楽界における最高峰オーケストラの一つです。その中において、日本人および日本にルーツを持つ奏者が長年さまざまな役割で活躍してきた歴史は、単なる「参加」ではなく、オーケストラの中心やリーダーシップを担う存在へと進化してきた道のりでもあります。
現在在籍しているのは、第1コンサートマスターの樫本大進さんをはじめ、入団順に町田琴和さん、清水直子さん、伊藤マレーネさん、吉田南さん、近衞剛大さんの6人です。また、これまでに土屋邦雄さんと安永徹さんが長年にわたってベルリン・フィルを支えてきました。
以下、現役奏者と退団した奏者に分けて、それぞれの経歴、ベルリン・フィルにおける役割、そして日本人奏者としての功績を紹介します。
現在ベルリン・フィルに在籍する日本人奏者
樫本大進さん ― 現代のベルリン・フィルを牽引するコンサートマスター
経歴
1979年、イギリスのロンドン生まれ。日本、アメリカ、ドイツで育ち、7歳でジュリアード音楽院のプレカレッジに最年少で入学。
11歳からドイツでザハール・ブロン氏に学び、その後、ベルリン・フィルの第1コンサートマスターを務めたライナー・クスマウル氏にも師事。
メニューイン国際コンクールのジュニア部門、ケルン国際ヴァイオリン・コンクール、フリッツ・クライスラー国際コンクール、ロン=ティボー国際コンクールなどで優勝した。
2009年9月、ベルリン・フィルの第1コンサートマスターに就任。
ベルリン・フィルでの役割・影響
第1コンサートマスターとして第一ヴァイオリン・セクションを率い、指揮者とオーケストラを結ぶ中心的な役割を担っています。安永徹さんが長年務めた重要なポジションを受け継ぎ、現代のベルリン・フィルを代表する日本人音楽家となりました。
ソリストや室内楽奏者としても世界的に活躍しており、ベルリン・フィルの演奏をまとめながら、オーケストラ全体の音楽づくりにも深く関わっています。
町田琴和さん ― 第一ヴァイオリンに根を下ろす象徴
経歴
東京出身。桐朋学園子どものための音楽教室を経て、東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校、東京芸術大学でヴァイオリンを学ぶ。
DAAD(ドイツ学術交流会)の奨学金を得て、ドイツのフランクフルト音楽大学に留学し、エディット・パイネマン氏らに師事。
ベルリン・フィル入団前には、ヴュルテンベルク・フィルハーモニー管弦楽団でコンサートマスターを務めた。
1997年9月、ベルリン・フィルの第一ヴァイオリン奏者として正式に入団。
ベルリン・フィルでの役割・影響
町田さんは、日本人女性ヴァイオリニストとして第一ヴァイオリン・セクションに長く在籍してきた象徴的な存在です。ベルリン・バロック・ゾリステンやVenus Ensemble Berlinなどの室内楽アンサンブルにも参加し、多彩な音楽表現を追求しています。
1997年の入団以来、長年にわたってベルリン・フィルの弦楽セクションを支えてきた実績は、若い世代の日本人音楽家にとって大きな道標となっています。
清水直子さん ― 首席ヴィオラ奏者としてセクションを牽引
経歴
大阪出身。最初はヴァイオリンを学び、1992年にヴィオラへ転向。
桐朋学園大学で岡田伸夫氏に学んだ後、1994年にドイツへ渡り、デトモルト音楽大学で世界的ヴィオラ奏者の今井信子氏に師事。
1996年にジュネーヴ国際音楽コンクールで優勝、1997年にはミュンヘン国際音楽コンクールのヴィオラ部門で第1位を獲得した。
2001年2月、ベルリン・フィルの首席ヴィオラ奏者として正式に入団。
ベルリン・フィルでの役割・影響
清水さんは現在もベルリン・フィルの首席ヴィオラ奏者として在籍し、ヴィオラ・セクションを牽引しています。オーケストラの中音域を支えるヴィオラに豊かな響きと表現力を与え、ベルリン・フィル独自の重厚な弦楽合奏を形づくる重要な役割を担っています。
ソリストとしてバイエルン放送交響楽団やスイス・ロマンド管弦楽団などと共演するほか、室内楽奏者としても幅広く活動しています。日本人女性奏者が世界最高峰のオーケストラで首席を務める、象徴的な存在です。
伊藤マレーネさん ― 第2ヴァイオリン首席としてのリーダー
経歴
横浜生まれ、オーストラリアのシドニー育ち。シドニー音楽院でヴァイオリンを学ぶ。
2003年にドイツへ移り、リューベック音楽大学およびベルリン芸術大学で研鑽を積んだ。
2006~2008年、ベルリン・フィルのカラヤン・アカデミーに在籍。
その後、ベルリン・コーミッシェ・オーパーの第1コンサートマスターを経て、2011年9月にベルリン・フィルへ入団。
2020年3月、ベルリン・フィルの第2ヴァイオリン第1首席奏者に就任。
ベルリン・フィルでの役割・影響
第2ヴァイオリン首席としてセクションを率い、コンサートマスターや他の弦楽器セクションとの橋渡しを担っています。室内楽やソロ活動にも精力的に取り組み、日本人女性奏者がベルリン・フィルの首席ポジションを担う道を広げた存在です。
吉田南さん ― 2025年に加わった新世代のヴァイオリニスト
経歴
奈良県天理市出身。5歳でヴァイオリンを始め、2014年から2017年まで桐朋女子高等学校音楽科で学び、原田幸一郎氏に師事。
2018年からアメリカのニューイングランド音楽院でミリアム・フリード氏に学び、2024年までに学士課程と修士課程を修了した。桐朋学園大学音楽学部および東京音楽大学のアーティスト・ディプロマ課程でも研鑽を積んだ。
2024年からは、ドイツのクロンベルク・アカデミーでミハエラ・マルティン氏に師事。
2025年8月より、ベルリン・フィルの第一ヴァイオリン奏者として活動している。
ベルリン・フィルへの加入状況
ベルリン・フィルの公式サイトでは、吉田さんは写真と経歴を伴って第一ヴァイオリンの団員一覧に掲載され、「2025年8月から第一ヴァイオリン・セクションのメンバー」と紹介されています。
一方、所属事務所などが発表した当初の情報では、「第一ヴァイオリン奏者としてトライアルを開始」とされていました。ベルリン・フィルでは、オーディション合格後に一定の試用期間を経て正式採用が決まる仕組みがあります。現時点では、吉田さんがトライアルを通過したことを明示する公式発表は確認できないため、現在(2026年7月)も試用期間中である可能性があります。
ベルリン・フィルでの役割・今後への期待
吉田さんは、2022年のインディアナポリス国際ヴァイオリン・コンクールで第3位、2024年のエリザベート王妃国際音楽コンクールで第6位、2025年のシベリウス国際ヴァイオリン・コンクールで第2位に入賞するなど、国際舞台で高く評価されてきました。
ソリスト、室内楽奏者、オーケストラ奏者のすべてをこなせる「真の音楽家」を目標としており、現在はベルリン・フィルの第一ヴァイオリン奏者として演奏活動を行っています。先輩の日本人奏者たちが築いてきた歴史を受け継ぐ、新しい世代を象徴する存在として、今後の活躍が期待されます。
近衞剛大さん ― 音楽一家の歴史を受け継ぐ若きヴィオラ奏者
経歴
1997年、オランダのアムステルダム生まれ。日本とオランダにルーツを持つ音楽一家に育ち、4歳からヴァイオリンを始めた。その後ヴィオラへ転向し、2016年から2023年までアムステルダム音楽院で今井信子氏、フランシン・スカットボーン氏に師事。
2018年のARDミュンヘン国際音楽コンクールのヴィオラ部門で第3位に入賞。2023年には、カピバラ・ピアノ四重奏団のメンバーとして大阪国際室内楽コンクールで第1位を獲得した。
2024年春からベルリン・フィルのカラヤン・アカデミーに在籍し、同楽団の首席ヴィオラ奏者ディヤン・メイ氏の指導を受けた。また、ベルリン・フィルをはじめとするオーケストラへの客演を通じて経験を積んだ。
2026年5月1日、ベルリン・フィルのヴィオラ奏者として加入した。
ベルリン・フィルへの加入状況
ベルリン・フィルの公式サイトでは、近衞さんはヴィオラ奏者として団員一覧に掲載され、在籍開始日は「2026年5月1日」と明記されています。
一方、日本国内で紹介された経歴には、2026年からベルリン・フィルの試用期間に入るとの記述もあります。ベルリン・フィルでは、オーディション合格後に試用期間を経て正式採用が決まるため、加入から間もない近衞さんは、現在(2026年7月)もトライアル期間中である可能性があります。
ベルリン・フィルとの歴史的なつながり
近衞さんの曾祖父は、指揮者・作曲家として日本のオーケストラ音楽の発展に尽くした近衞秀麿です。近衞秀麿は、日本人として初めてベルリン・フィルを指揮した人物として知られています。
その曾孫にあたる近衞剛大さんが、約一世紀の時を経てベルリン・フィルのヴィオラ奏者として加わったことは、日本とベルリン・フィルとの長い音楽的交流を象徴する出来事といえるでしょう。カラヤン・アカデミーでの経験を経て楽団に加わった、新世代のヴィオラ奏者として今後の活躍が期待されます。
ベルリン・フィルを退団した日本人奏者
土屋邦雄さん ― 日本人初の正団員ヴィオラ奏者
経歴
ヴィオラ奏者として1959年にベルリン・フィルへ入団し、日本人として初めて同楽団の正団員となりました。カラヤン時代を中心に長年ヴィオラ・セクションを支え、2001年に退団。2023年に89歳で逝去しました。
ベルリン・フィルでの役割・影響
海外で活躍する日本人音楽家がまだ非常に少なかった時代にベルリン・フィルの正団員となった、まさに先駆者です。40年以上にわたってオーケストラを支え、日本人奏者がベルリン・フィルで活躍する道を切り開きました。
安永徹さんをはじめ、後に続く日本人奏者にとって大きな礎となった存在です。
土屋邦雄氏が2023年8月20日に逝去されました(89歳)。
ベルリン・フィル黄金時代を支えた土屋氏の多大なる功績に最大の称賛をおくるとともに、心からご冥福をお祈り申し上げます。
安永徹さん ― 歴史を動かしたコンサートマスター
経歴
福岡県出身。桐朋学園高等学校、桐朋学園大学でヴァイオリンを学ぶ。1975年にベルリン芸術大学へ進学し、当時ベルリン・フィルのコンサートマスターだったミシェル・シュヴァルベ氏に師事。
1977年、ベルリン・フィルの第一ヴァイオリン奏者として入団。
1983年から2009年まで第1コンサートマスターを務め、2009年に退団した。
ベルリン・フィルでの役割・影響
安永さんは26年にわたって第1コンサートマスターを務め、指揮者とオーケストラを結ぶ中心的な役割を担いました。カラヤン、アバド、ラトルという歴代の首席指揮者のもとでベルリン・フィルを支え、日本人が世界最高峰のオーケストラの中核を担えることを示した象徴的な音楽家です。
退団後もソロや室内楽を中心に活動し、長年にわたって培った音楽を後世へ伝えています。
歴代8人から見える日本人奏者の存在意義
現役の6人と、ベルリン・フィルを退団した2人の歩みを総合的に見ると、同楽団における日本人および日本にルーツを持つ奏者の存在意義は、以下のようにまとめられます。
- 歴史と継承の連続性:土屋邦雄さんが正団員として道を切り開き、安永徹さんがコンサートマスターとして楽団を牽引。その歴史を現在の6人が受け継いでいる。
- オーケストラの中核を担う存在:第1コンサートマスターや各セクションの首席奏者など、演奏だけでなくオーケストラをまとめる重要な役割も任されてきた。
- 多様性と国際性:日本、ドイツ、アメリカ、オーストラリア、オランダなど、さまざまな国や地域で学んだ奏者が、それぞれの経験をベルリン・フィルの音楽に生かしている。
- 文化的な架け橋:日本とドイツを結ぶ存在として、オーケストラ演奏や室内楽活動を通じて両国の音楽交流に貢献している。
- 次世代への影響:吉田南さんと近衞剛大さんが相次いで加わったことは、若い世代の奏者が世界最高峰のオーケストラに到達できることを改めて示している。
- 世代を超えた歴史的なつながり:日本人として初めてベルリン・フィルを指揮した近衞秀麿の曾孫・近衞剛大さんが同楽団に加わったことは、日本とベルリン・フィルとの長い交流を象徴している。
結び
ベルリン・フィルにおける日本人奏者の歴史は、単なる「外部からの参加」ではありません。土屋邦雄さんが日本人初の正団員として道を切り開き、安永徹さんが第1コンサートマスターとして長年オーケストラを牽引してきました。
現在は、第1コンサートマスターの樫本大進さんを筆頭に、町田琴和さん、清水直子さん、伊藤マレーネさん、吉田南さん、近衞剛大さんの6人が在籍しています。コンサートマスター、首席奏者、第一・第2ヴァイオリン奏者、ヴィオラ奏者として、それぞれがベルリン・フィルの演奏を支えています。
現役奏者と退団した奏者を合わせた8人の歩みは、ベルリン・フィルの国際性、多様性、リーダーシップ、そして世代を超えた歴史の継承を体現しています。2025年に吉田南さん、2026年に近衞剛大さんが加わったことで、日本にルーツを持つ奏者の歴史は、さらに新しい世代へと受け継がれることになりました。
なお、吉田南さんと近衞剛大さんについては、ベルリン・フィル公式サイトの団員一覧に掲載されていますが、試用期間を通過したことを明示する公式発表は現時点(2026年7月)で確認できません。そのため、両氏は現在もトライアル期間中である可能性があります。





















