親日家 カール・ライスター
2025年11月25日 当サイトにはプロモーションが含まれますカール・ライスターとカラヤン、そしてベルリン・フィル ― “黄金のクラリネット”の物語
カール・ライスター(Karl Leister, 1937– )は、20世紀後半を代表するクラリネット奏者の一人です。
とくに、ヘルベルト・フォン・カラヤンが率いたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(以下、ベルリン・フィル)で約30年以上にわたりソロ・クラリネットを務めたことで、世界中にその名を知られるようになりました。
ここでは、ライスターの経歴を軸に、カラヤンとの関係、ベルリン・フィルでの役割、日本とのつながり、そしてサイトウ・キネン・オーケストラとの関係までを、少し掘り下げてたどってみます。
このページの目次
1. 少年時代からベルリン・フィルへ ― 入団までの歩み
(1)クラリネット一家に生まれて
ライスターは1937年、ドイツ北部の港町ヴィルヘルムスハーフェンに生まれました。幼い頃からクラリネット奏者であった父親の手ほどきを受け、自然とクラリネットの世界に入っていきます。
父はベルリンのRIAS交響楽団に所属しており、その影響もあって、若いライスターは早くからプロ・オーケストラの音を身近に感じながら育ちました。
1950年代前半にはベルリン音楽大学(Hochschule für Musik)で本格的な音楽教育を受け、まだ10代のうちに実力派の若手として注目される存在になります。
(2)コミッシェ・オーパーのソロ・クラリネットに就任
1957年、ライスターがまだ10代の終わりだった頃、彼は東ベルリンのコミッシェ・オーパー・ベルリンのソロ・クラリネット奏者に就任します。
指揮者ヴァーツラフ・ノイマンや演出家ヴァルター・フェルゼンシュタインのもとで、オペラの現場を経験したことは、オーケストラと歌とのバランス感覚や、フレーズの「歌わせ方」を磨く大きな糧となりました。
(3)1959年、カラヤンのベルリン・フィルへ
そして1959年、ライスターにとって決定的な転機が訪れます。
弱冠22歳にして、ヘルベルト・フォン・カラヤン率いるベルリン・フィルのソロ・クラリネット奏者に就任したのです。
当時のベルリン・フィルはすでにカラヤン体制が軌道に乗り始めた時期で、新世代の木管・金管奏者を積極的に起用し、「新しいベルリン・フィル・サウンド」をつくろうとしていました。
カラヤンはライスターの音を聴き、その柔らかく、深く、品格のある音色に大きな可能性を感じたと言われています。
ドイツ的な重厚さを保ちながらも、よく歌い、よく息が流れるその音は、これから彼が構想する「カラヤン・サウンド」にぴったりだったのでしょう。
2. カラヤンとライスター ― “カラヤン・サウンド”の中核として
(1)木管セクションの要として
ベルリン・フィルにおけるライスターは、単なるクラリネット・パートの一員ではなく、木管セクションの音色を決定づける存在でした。
カラヤンはオーケストラ全体の音を「大きな一つの楽器」として捉え、各パートに求める音色の方向性を細かく指定したことで知られますが、その中でもクラリネットには、とくに「柔らかさ」と「統一感」が期待されました。
ライスターの音は、まさにその要望にぴったり答えるものでした。
・濃厚ながら角が取れたトーン
・低音から高音までムラのない響き
・レガートでつながる、よく歌うフレーズ
こうした特徴が、フルートやオーボエ、ファゴットの音と溶け合い、ベルリン・フィルならではの「暖かく深い木管サウンド」を生み出していきます。
(2)数々の名録音で聴ける“ライスターの音”
ライスターは、カラヤン時代の名録音のほとんどに参加しています。
とくにクラリネットが印象的な作品では、彼の存在感が一段と際立ちます。
たとえば、
・ブラームスの交響曲でのクラリネット・ソロ(第1〜4番)
・R.シュトラウス《ティル・オイレンシュピーゲル》《英雄の生涯》などの重要な木管ソロ
・ベートーヴェン交響曲第4番、第6番「田園」などの抒情的な場面
など、挙げ出せばきりがありません。
また、ライスターはオーケストラだけでなく、室内楽や協奏曲のソリストとしても多くの録音を残しています。
モーツァルト《クラリネット協奏曲》、ブラームスのクラリネット五重奏曲やクラリネット・ソナタ、シュポアやウェーバーの協奏曲など、クラリネットの主要レパートリーはほとんど録音していると言ってよいほどです。
3. ベルリン・フィルの一員としての30年
(1)木管アンサンブルと「ベルリンの仲間たち」
ライスターは、オーケストラの中だけでなく、ベルリン・フィルの仲間と組んだ室内楽でも活躍しました。
ベルリン・フィルの首席奏者たちによる木管アンサンブル「ベルリン・ゾリステン(Bläser der Berliner Philharmoniker)」の創設メンバーの一人でもあり、ブラームス《クラリネット五重奏曲》などの録音でも知られています。
さらに、ウィーン・フィルのメンバーとも共演し、「アンサンブル・ウィーン=ベルリン」を結成。
ドイツとオーストリア、二つの名門オーケストラの首席奏者たちが織りなす豪華な室内楽ユニットとして、多くの公演と録音を行いました。
(2)カラヤン時代からアバド時代へ
ライスターがベルリン・フィルに在籍していたのは、1959年から1993年頃まで、およそ30年以上にわたります。
つまり、カラヤンの全盛期はもちろん、その後のクラウディオ・アバド時代の初期までも、彼はオーケストラの中核メンバーとして活躍していたことになります。
カラヤンとともに築いた「黄金時代」のサウンドを、次の世代へ橋渡しした存在としても、ライスターの役割は非常に大きかったと言えるでしょう。
4. 日本との深い関係 ― 来日公演と教育活動
(1)ベルリン・フィルとしてたびたび来日
ベルリン・フィルは1960年代以降、日本へのツアーを何度も行っており、その多くにライスターも参加しました。
日本の聴衆にとって、「カラヤン&ベルリン・フィルのクラリネット」といえばライスター、という印象を持つ人も少なくありません。
テレビや映像、LP・CDを通じて、彼の音を聴いてクラリネットを志した日本人奏者も多く、
「日本のクラリネット界に与えた影響は計り知れない」と言っても過言ではありません。
(2)マスタークラスやフェスティバルでの指導
ベルリン・フィル退団後も、ライスターは日本との関係を大切にしており、たびたび来日してはマスタークラスやリサイタルを行ってきました。
日本の音楽祭(たとえばラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンなど)にも出演し、ソロや室内楽、指導を通して多くの日本人奏者や聴衆と交流しています。
日本のレーベルからも多数の録音がリリースされており、日本のファンにとっては「身近な巨匠」として親しまれている存在です。
5. サイトウ・キネン・オーケストラとの関わり
(1)小澤征爾とサイトウ・キネンの夢
日本との関係の中で特に重要なのが、サイトウ・キネン・オーケストラとの関わりです。
サイトウ・キネン・オーケストラは、指揮者・小澤征爾が恩師・斎藤秀雄の名を冠して設立したオーケストラで、日本と世界のトップ奏者が集まる「ドリーム・オーケストラ」として知られています。
サイトウ・キネンには、欧米の一流オーケストラで活躍する奏者も多く参加しており、カール・ライスターもその一人として名を連ねています。
ベルリン・フィルで培った経験と、ドイツ的なクラリネットの伝統を、日本を拠点とするこのオーケストラにもたらした存在だと言えるでしょう。
(2)日本の若い世代への“音のバトン”
サイトウ・キネン・オーケストラやその後のサイトウ・キネン・フェスティバル、さらには水戸室内管弦楽団など、小澤征爾が関わる日本のプロジェクトには、常に「日本の若い世代へ世界の一流の音を直接伝えたい」という願いがあります。
その中で、カール・ライスターの存在は非常に大きな意味を持ちました。
・ベルリン・フィルの黄金時代のクラリネットの響き
・ヨーロッパで培われた室内楽のスタイル
・カラヤンのもとで学んだプロとしての姿勢
こうしたものを、日本の若い奏者たちが間近で感じ、学ぶことができたからです。
6. 教育者としての晩年と、ライスターの遺したもの
ベルリン・フィルを退団した後も、ライスターはベルリンの音楽大学で教授を務め、多くの弟子を育ててきました。
日本や世界各地でのマスタークラス、国際コンクールの審査員など、その活動は今なお続いています。
彼の教えを受けたクラリネット奏者は、今や世界中のオーケストラや音楽大学で活躍しており、
「カール・ライスターの音」と「彼が体現したベルリン・フィルの伝統」は、次の世代、さらにその次の世代へと受け継がれています。
7. ― “カラヤン時代のクラリネット”から、普遍的な巨匠へ
カール・ライスターという名前を聞くと、多くの人はまず「カラヤン時代のベルリン・フィルのクラリネット」を思い浮かべるでしょう。
しかし、そのキャリアを改めて眺めてみると、彼は単に一つのオーケストラの首席奏者にとどまらず、
・オーケストラ奏者
・ソリスト
・室内楽奏者
・教育者、そして日本やサイトウ・キネンをはじめとする国際的なプロジェクトの橋渡し役
として、非常に幅広い影響を与えてきたことがわかります。
カラヤンと築いたベルリン・フィルの黄金時代、そして日本やサイトウ・キネン・オーケストラとの交流を通じて、ライスターが鳴らし続けてきたクラリネットの音は、これからも録音や弟子たちの演奏を通して、長く愛され続けることでしょう。
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