カラヤンは映像会社の経営者だった 約200本の音楽映像を残した知られざる戦略
ヘルベルト・フォン・カラヤンといえば、ベルリン・フィルを30年以上率いた20世紀を代表する指揮者です。
膨大なレコードを残し、CDの普及にも積極的だったことはよく知られています。
しかし、カラヤンにはもう一つ、あまり知られていない顔がありました。
実はカラヤンは「映像制作会社の経営者」でもあったのです。
単にテレビ局から依頼されて演奏会を撮影していたわけではありません。
1964年にはドイツのメディア事業家レオ・キルヒと共同で映像会社を設立。
さらに晩年には、自分自身の映像制作会社まで作っています。
そして生涯に残した映像作品は約200本。
現在、それらはDVDやBlu-rayだけでなく、インターネットのストリーミングでも見ることができます。
カラヤンは、YouTubeも動画配信サービスも存在しない1960年代から、
「演奏は音だけでなく映像として世界中へ届けられる時代が来る」
と考えていたのです。
今回は、指揮者カラヤンのもう一つの顔である「映像ビジネス」について詳しく見ていきます。
カラヤンは早くから「映像」の可能性に気づいていた
カラヤンは新しい技術が大好きな人物でした。
レコード録音はもちろん、ステレオ、テレビ、ビデオ、レーザーディスク、デジタル録音、CDなど、新しい音響・映像技術に強い関心を持っていました。
カラヤン公式資料によれば、生涯に残した録音は2,000以上。
さらに映像作品も約200本に達しています。
しかし、カラヤンにとってテレビや映画は単なる「演奏記録」ではありませんでした。
コンサートホールへ来られない人でも、自宅で最高水準の音楽を体験できる。
そう考え、テレビや映画をコンサートホールとは別の新しい音楽メディアとして捉えていたのです。
1964年、カラヤンが映像会社を設立
大きな転機となったのが1964年です。
この年、カラヤンはドイツのメディア事業家、
レオ・キルヒ(Leo Kirch)
と組みます。
そしてクラシック音楽を映画やテレビ向けに制作する会社、
Cosmotel(コスモテル)
を設立しました。
現在も世界有数のクラシック音楽映像会社として存在するUNITELの公式サイトでも、UNITELの前身が、1964年にレオ・キルヒとカラヤンによって設立されたCosmotelだったことが明記されています。
つまりカラヤンは、
映像作品に出演する音楽家ではなく、映像を作る会社そのものの設立者だった
のです。
なんとカラヤンとキルヒは「50対50」だった
さらに興味深い記録があります。
Oxford University Pressの学術誌『Music & Letters』に掲載された研究では、映画プロデューサーのヘルベルト・G・クロイバーの証言が紹介されています。
それによると、Cosmotelにおけるカラヤンとレオ・キルヒの持分は、
50対50。
だったといいます。
クロイバーは二人の関係について、一方が資金を提供し、もう一方が芸術を提供したという趣旨で回想しています。
つまりカラヤンは、単なる「名前だけの協力者」ではありませんでした。
映像会社の共同事業者だった
と考えてよいでしょう。
レオ・キルヒとはどんな人物だったのか
レオ・キルヒはその後、ドイツを代表するメディア事業家となった人物です。
映画やテレビ番組の権利を大量に取得し、テレビ局や有料放送などにも事業を拡大。
後に「キルヒ・グループ」と呼ばれる巨大なメディア企業群を築きます。
そんなメディアビジネスの専門家と、世界有数の指揮者カラヤンが1960年代から組んでいたわけです。
今風にいえば、
世界的アーティストと巨大メディア企業家によるコンテンツ会社
を作ったようなものです。
クラシック音楽界では非常に先進的な試みでした。
CosmotelからUNITELへ
Cosmotelから発展したのが、現在のUNITELです。
UNITELは現在もオペラ、コンサート、バレエなどの映像作品を世界中で制作しており、2,500作品以上の映像ライブラリーを持っています。
カラヤンだけでなく、レナード・バーンスタイン、カルロス・クライバーをはじめとする多くの名指揮者の映像も残しています。
カラヤンとUNITELについては、こちらの記事でも詳しく紹介しています。
ただし今回注目したいのはUNITELそのものではありません。
カラヤン自身が映像ビジネスの立ち上げ側にいた
という点です。
最初は有名映画監督から映像制作を学んだ
カラヤンは最初から自分ですべての映像を作れたわけではありません。
そこで一流の映画監督と組みます。
中でも有名なのがフランスの映画監督、
アンリ=ジョルジュ・クルーゾー
です。
クルーゾーは『恐怖の報酬』『悪魔のような女』などで知られる、当時のフランスを代表する映画監督でした。
そんな本格的な映画監督とカラヤンが組み、1965年から1967年にかけて複数の音楽映画を制作しました。
主な作品には、
- シューマン:交響曲第4番
- モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番
- ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」
- ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」
- ヴェルディ:レクイエム
などがあります。
カラヤンはクルーゾーとの仕事を通じて、音楽を映像としてどう表現するかを学んでいったと考えられます。
演奏が終わった後、一人で指揮をやり直した
カラヤンの映像に対する執念を示す非常に面白いエピソードがあります。
1964年、ベルリンのSender Freies Berlinで、リヒャルト・シュトラウス《ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら》の映像制作が行われました。
演奏の収録が終わると、オーケストラの団員たちはスタジオを去ります。
ところが、
カラヤンだけは残りました。
そして録音済みの演奏を流しながら、一人で再び指揮を始めます。
もちろん練習するためではありません。
目的は、
「自分が指揮している姿がカメラにどう映るか」を確認するためだった
と研究資料に記録されています。
普通の指揮者なら、音がどう聞こえるかを気にするでしょう。
カラヤンはそれだけではありませんでした。
自分の手の動き、顔、姿勢、カメラから見たシルエットまで「作品」の一部として考えていたのです。
カラヤンは「演奏会を撮影する」だけでは満足しなかった
一般的なコンサート映像であれば、舞台上の演奏を複数のカメラで撮影して編集します。
しかしカラヤンが求めたのは、それ以上のものでした。
音楽の流れに合わせ、
- どの瞬間に指揮者を映すか
- どの小節でヴァイオリンを映すか
- いつ木管楽器をアップにするか
- 演奏者の手をどの角度から撮影するか
- 照明をどう当てるか
- 画面上で演奏者をどう配置するか
まで考えるようになります。
カラヤンにとって映像は、
「演奏を記録するもの」ではなく「音楽を視覚化するもの」
だったのです。
今度は映画監督と衝突するようになる
ところが、自分なりの映像表現を確立していくにつれ、カラヤンはプロの映画監督が作る映像にも満足できなくなっていきます。
代表的なのがドイツの映像監督、
フーゴ・ニーベリング
との仕事です。
1967年、ニーベリングはカラヤン指揮によるベートーヴェン交響曲第6番《田園》を映像化しました。
ニーベリングは非常に実験的な映像監督でした。
ソフトフォーカスや鏡、特殊なレンズ、色の変化などを使い、それまでのクラシック音楽映像とは違う作品を作ろうとしました。
例えば床の色まで音楽に合わせて変化させています。
しかしカラヤンは次第に、
「映像が強すぎると音楽への集中を邪魔する」
と考えるようになりました。
ニーベリング版をカラヤンが自分で編集し直す
両者の対立はさらに進みます。
ニーベリングが制作したベートーヴェン交響曲第3番《英雄》などについて、カラヤン側が映像を大幅に編集し直しました。
学術研究ではニーベリング版とカラヤン再編集版が比較されています。
そこで非常に興味深い違いが指摘されています。
カラヤン版では「カラヤン自身のアップ」が明らかに増えていた
のです。
もちろんカラヤン本人からすれば、自分を目立たせたいだけではなく、
「音楽の構造を示すには指揮者の動きを見せる必要がある」
という考えだった可能性もあります。
しかし結果として、カラヤンが画面に登場する時間は多くなりました。
この頃からカラヤンは、映画監督にすべてを任せるのではなく、
自分自身で映像表現をコントロールする方向
へ進んでいきます。
指揮者から「映像監督」へ
その後のカラヤンは、撮影にますます細かく関与するようになります。
映像作品によっては、実際のベルリン・フィルを撮影する前に、別のオーケストラなどを使ってカメラ割りを検討しました。
音楽を聴きながら、
「ここでは第1ヴァイオリン」
「次はオーボエ」
「ここで指揮者」
「ここではホルン」
というように、あらかじめ映像の流れまで設計していきます。
現在のテレビ番組やライブ映像でいう、
「映像ディレクター」
の仕事までカラヤン自身が行っていたことになります。
1982年、ついに自分だけの映像会社を設立
そして1982年。
カラヤンはついに、自らの映像制作会社、
TELEMONDIAL S.A.M.(テレモンディアル)
を設立しました。
カラヤン研究所の公式年譜にも、1982年にカラヤンがTelemondialを設立したことが記録されています。
その目的は、
カラヤン自身の音楽的遺産をビデオやレーザーディスクに記録すること。
ここまで来ると、単に「映像好きの指揮者」と呼ぶのは不十分でしょう。
自分で会社を設立し、自分の演奏を自分の望む方法で制作し、将来のメディアで販売できる形に残そうとしていたのです。
なぜカラヤンはそこまで映像にこだわったのか
一つには、カラヤンが自分の音楽をできるだけ多くの人へ届けたいと考えていたことがあります。
コンサートは一度に数千人しか聴くことができません。
しかも演奏が終われば、その瞬間は消えてしまいます。
しかしレコードなら数十万人、数百万人に届けられる。
映像なら、
「カラヤンがどのように指揮したか」まで未来へ残すことができる。
カラヤンはこの可能性を非常に早い段階から理解していたのでしょう。
「音」だけでなく自分自身も作品だった?
もう一つ無視できないのが、カラヤン自身のスター性です。
黒いタートルネック。
銀色の髪。
目を閉じて指揮する独特の姿。
カラヤンは20世紀のクラシック音楽家の中でも、とりわけ強い「ビジュアルイメージ」を持った人物でした。
そして、それは偶然作られたものではなかった可能性があります。
映像作品を細かくチェックし、カメラアングルや照明、自分自身の見え方にまでこだわったからです。
現代風に言えば、
「カラヤン」というブランドそのものを映像によって作り上げた
ともいえるでしょう。
約200本もの映像作品を残した
こうした活動の結果、カラヤンは生涯に約200本の映像作品を残しました。
カラヤン公式サイトでも、
2,000以上の音声録音と、約200の映像制作
が存在するとしています。
ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、チャイコフスキー、リヒャルト・シュトラウスなど主要レパートリーだけでなく、オペラ作品も数多く映像化されています。
音だけ残した指揮者は数多くいます。
しかし、
自分自身の指揮姿まで体系的に映像として残した20世紀の巨匠
という点で、カラヤンは特別な存在でした。
カラヤンの映像戦略は40年後に実を結んだ
そして非常に興味深いのが現在です。
カラヤンがTelemondialを設立した1982年当時、家庭用映像メディアといえばVHSやレーザーディスクの時代でした。
インターネットは一般家庭に存在していません。
YouTubeもNetflixも動画配信サービスもありません。
しかし、その後、
VHS
レーザーディスク
DVD
Blu-ray
インターネット配信
と映像メディアは発展していきます。
そして2024年には、Deutsche Grammophonの映像配信サービス「STAGE+」で、Telemondial制作のカラヤン映像がデジタル化されて公開されました。
カラヤン研究所によれば、Telemondial作品とUNITEL作品を合わせ、26本以上のカラヤンのコンサート・オペラ映画が提供されました。
つまり、
カラヤンが1980年代に残した映像資産が、40年以上後のストリーミング時代にも商品として生き続けている
のです。
カラヤンは単なる指揮者ではなかった
カラヤンを「レコードをたくさん録音した指揮者」と考えるだけでは、その人物像の一部しか見えてきません。
1964年にはレオ・キルヒとCosmotelを設立。
しかも両者の持分は50対50だったとされています。
一流映画監督と共同制作し、そこから映像技術を学び、自分自身で編集やカメラ割りへ介入するようになる。
そして1982年にはTelemondialを設立。
自分の演奏を映像資産として未来へ残しました。
これは現在のアーティストが、
自分でレーベルや映像制作会社を持ち、自分のコンテンツや権利を管理する
のとよく似ています。
カラヤンは、それを半世紀以上前から始めていたのです。
まとめ
カラヤンが映像に熱心だったことは比較的よく知られています。
しかし、その実態を詳しく見ていくと、単なる新技術好きではありませんでした。
- 1964年にレオ・キルヒとCosmotelを共同設立
- 持分は50対50だったとされる
- 映画監督クルーゾーらと本格的な音楽映画を制作
- 自分がカメラにどう映るかまで研究
- 映像監督の作品を自分で再編集
- 1982年にTelemondialを設立
- 生涯で約200本の映像作品を残す
- その映像が現在もストリーミングで利用されている
という活動を続けていました。
カラヤンは、指揮者であると同時に、
音楽プロデューサー、映像ディレクター、そしてメディア事業家でもあった
といえるでしょう。
そして何より驚くのは、
「音楽映像そのものが将来大きな資産になる」ことを、カラヤンが早い時代から見抜いていたこと
です。
カラヤンの死から長い年月が過ぎた現在も、世界中の人々がスマートフォンやテレビでその指揮姿を見ることができます。
映像に対するカラヤンの異常ともいえるこだわりは、結果的にはかなり先見の明があったといえるのではないでしょうか。








