カラヤン晩年を最前列で見た男 レオン・シュピーラー

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カラヤン時代のベルリン・フィルには、数多くの名奏者が在籍していました。

その中でも、指揮台のすぐそばからカラヤンを長年見続けた人物が、コンサートマスターのレオン・シュピーラー(Leon Spierer)です。

シュピーラーは1963年から1993年まで、実に30年間にわたってベルリン・フィルのコンサートマスターを務めました。

カラヤンと共演した期間は26年間。

本人は後年、その時代について、

「私の職業人生で最高の年月だった」

と振り返っています。

しかし興味深いのは、シュピーラーが単なる「カラヤン礼賛」に終始していないことです。

カラヤンの音楽的才能を最大限に評価する一方、ベルリン・フィルとの関係が悪化した晩年については、かなり率直な証言を残しています。

ベルリン・フィルのオーディションにカラヤンも参加

シュピーラーはベルリン生まれですが、家族とともに南米へ渡り、アルゼンチンで成長しました。

ヴァイオリンを学びながら経済学も修め、公認会計士の資格まで取得したという異色の経歴を持っています。

その後ヨーロッパへ戻り、ニュルンベルク、ブレーメン、ストックホルムのオーケストラでコンサートマスターを務めました。

1962年、音楽雑誌でベルリン・フィルが第1コンサートマスターを募集していることを知ります。

シュピーラーによれば、

「ベルリン・フィルという名前と、カラヤンという著名な指揮者の名前は、世界中の音楽家を引き寄せる磁石のようだった」

といいます。

オーディションでは楽団員だけでなくカラヤンもシュピーラーを支持し、1963年にベルリン・フィルへ加入しました。

最初の1年間はカラヤンの要求が理解できなかった

ところがベルリン・フィルに入ったシュピーラーは、最初からカラヤンとうまく演奏できたわけではありません。

本人によると、最初のシーズンは非常に苦労したそうです。

理由は単純でした。

カラヤンが求めている音を、どうやって出したらいいのかわからなかった。

シュピーラーはコンサートマスターですから、リハーサルでも本番でもカラヤンからわずか1メートルほどの場所に座っています。

それでもカラヤン独特の指揮法と音の要求を理解するまで、約1年かかったといいます。

ところが、ある時突然「頭の中で何かがつながった」。

それ以降は、

「水を得た魚のようだった」

とシュピーラーは振り返っています。

どうすればベルリン・フィルのコンマスになれるのか

シュピーラーには、若い音楽家への印象的な言葉も残されています。

「どうすれば、あなたのようにベルリン・フィルのコンサートマスターという地位にまで到達できるのですか」

という趣旨の質問を受けた際、シュピーラーが答えたのは、

「Effort(努力)」

という非常にシンプルな言葉だったと伝えられています。

別の資料でもシュピーラーは、音楽家が成功するために必要なものとして、才能や強い向上心に加えて、

「hard, very hard work(非常に厳しい努力)」

を挙げています。

世界最高峰のオーケストラのコンサートマスターにまで到達した人物から、何か特別な才能や秘訣について語られるのかと思えば、答えは「努力」でした。

そしてシュピーラー自身の経歴を見ると、その言葉には重みがあります。

アルゼンチンで学び、ヨーロッパへ戻ってからも、いきなりベルリン・フィルへ入ったわけではありません。

ニュルンベルク、ブレーメン、ストックホルムと複数のオーケストラで経験を積み、ようやくベルリン・フィルのオーディションに挑戦しました。

しかも入団後でさえ、カラヤンが求める音を理解するまで約1年を要しています。

シュピーラーにとって「努力」という言葉は、単なる精神論ではなく、自分自身の音楽家人生そのものだったのかもしれません。

「偉大な指揮者は、あまり指揮する必要がない」

シュピーラーのカラヤン評には、興味深い言葉があります。

彼は、

偉大な指揮者は、それほど多く指揮する必要はない。必要なのは音楽家を刺激することだ

という考えを持っていました。

そして、その能力についてカラヤンを非常に高く評価しています。

カラヤン自身はヴァイオリンや管楽器などのオーケストラ楽器を専門的に演奏する人物ではありませんでした。

それにもかかわらず、

「自分が欲しい音を非常にはっきり理解していた」

というのです。

カラヤンが長年かけて作り上げたベルリン・フィル独特の音色について、最前列で演奏していた人物ならではの証言といえるでしょう。

カラヤンにも「得意ではない作曲家」がいた

シュピーラーの証言でさらに面白いのは、カラヤンのレパートリーについてかなり率直に評価していることです。

シュピーラー個人の意見として、バッハ、ハイドン、モーツァルト、一部のベートーヴェン、シューベルト、シューマンについては、

必ずしもカラヤンに最も適したレパートリーではなかった

と述べています。

一方で、

ブルックナー、フランス音楽、イタリア音楽、オペラ、そして一部のベートーヴェンなどについては、

「本当に並外れていた」

と高く評価しました。

26年間すぐ隣で演奏したコンサートマスターから見ても、「カラヤンなら何でも最高」というわけではなかったのです。

サビーネ・マイヤー事件を内部から証言

そしてシュピーラーの証言で最も興味深い部分の一つが、ベルリン・フィルとカラヤンの関係を悪化させたサビーネ・マイヤー事件です。

1980年代初頭、カラヤンは若きクラリネット奏者サビーネ・マイヤーをベルリン・フィルに加入させようとしました。

カラヤンは彼女を全面的に支持しましたが、楽団内の支持は十分ではありませんでした。

シュピーラーによると、楽団員はマイヤーの弱音を非常に美しいと評価していました。

しかし音量を上げた際の響きについて、ベルリン・フィルの中で長期間演奏する奏者として十分にオーケストラへ溶け込めるかという点に疑問を持ったといいます。

シュピーラーは、

ソリストとしての能力とは全く別の問題だった

とも強調しています。

ベルリン・フィルが重視していたのは、「その人物が今後30年、40年にわたってオーケストラの音の中に溶け込めるか」ということでした。

しかしカラヤンは最後までマイヤーを強く支持しました。

この結果、指揮者と楽団の間に大きな亀裂が生じます。

「小さな原子爆弾が爆発した」

シュピーラーは、この時期のカラヤンとベルリン・フィルとの関係を非常に印象的な言葉で表現しています。

マイヤー問題だけではありませんでした。

録音や映像制作をめぐる金銭面・契約面でも、楽団側には不満が蓄積していたといいます。

こうした問題が一気に重なった結果、

「突然、小さな原子爆弾が爆発したようなものだった」

とシュピーラーは振り返っています。

実際、1980年代前半にはカラヤンとベルリン・フィルの録音契約や映像制作をめぐる対立が公になり、レコード会社を巻き込む大きな問題に発展していました。

1984年の米国音楽業界誌にも、カラヤンとベルリン・フィルの対立が長期化し、ドイツ・グラモフォンやEMIまで今後の録音計画に影響を受けていたことが報じられています。

それでも音楽上のカラヤンへの敬意は失われなかった

ここがシュピーラーの証言で最も重要なところでしょう。

楽団とカラヤンの間にどれほど大きな対立が起こっても、

「我々は常に彼の音楽上の権威を尊重していた」

とシュピーラーは語っています。

つまり晩年の問題は、「楽団員がカラヤンの音楽を嫌いになった」という単純な話ではありません。

音楽家としてのカラヤンは認める。

しかし楽団の運営、録音、契約、人事については意見が衝突する。

この二つが同時に存在していました。

カラヤンは権力を失ったことに苦しんでいた?

シュピーラーによると、1985年頃からカラヤンは、楽団運営において以前のような強い影響力を持てなくなったことに非常に不満を抱いていたといいます。

シュピーラーはカラヤンについて、

「大きな権力を失ったことに苦々しい思いを抱いていた」

という趣旨の証言を残しています。

1950年代から長期間、ベルリン・フィルで圧倒的な存在だったカラヤンにとって、楽団員が自分の意向に従わなくなっていく状況は受け入れ難いものだったのかもしれません。

初仕事でいきなり演奏不能に

シュピーラーには、カラヤンとの少し微笑ましい思い出もあります。

1963年、ベルリン・フィルに加入して最初の仕事の一つがルツェルンでのヴェルディ《レクイエム》でした。

リハーサルでレオンタイン・プライスの歌を間近で聴いたシュピーラーは、あまりの感動に、

ヴァイオリンを弾けなくなってしまった

といいます。

「ベルリン・フィルに入った最初の週なのに、これでは最初で最後の週になる」と焦ったそうです。

しかし周囲を見ると、同僚だけではなく、

なんとカラヤンまで涙を流していました。

それを見たシュピーラーは、

「自分は最高の仲間の中にいる」

と思ったそうです。

30年間ベルリン・フィルを支えたコンサートマスター

シュピーラーは1993年までベルリン・フィルに在籍しました。

ベルリン・フィルが2026年に発売した1970年代のカラヤン・ライヴ録音集でも、シュピーラーは当時の代表的な団員ソリストの一人として紹介されています。

カラヤンのすぐ隣に座り続けた26年間。

シュピーラーの証言から浮かび上がってくるカラヤンは、「完全無欠の帝王」でも、「楽団員から嫌われた独裁者」でもありません。

圧倒的な音楽的才能を持ち、オーケストラから深く尊敬されながら、一方では権力や録音ビジネス、人事をめぐって楽団と激しく衝突した人物でした。

そして、その両方のカラヤンを指揮台からわずか1メートルほどの場所で見続けていたのが、レオン・シュピーラーだったのです。

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