カラヤン

カラヤンに「帰れ」―1955年ベルリン・フィル初のアメリカ公演で起きた大抗議

karajanbpo
記事内に商品プロモーションを含む場合があります

1955年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は初めてアメリカへ渡りました。

指揮台に立ったのは、当時46歳のヘルベルト・フォン・カラヤン。

後に30年以上にわたってベルリン・フィルに君臨することになるカラヤンですが、この時点ではまだ同楽団の正式な首席指揮者ではありませんでした。

しかも、この記念すべき初のアメリカ・ツアーは華々しい歓迎一色ではありませんでした。

ニューヨークでは多数の音楽家が公演中止を要求。

カーネギーホールの前には抗議者が集まり、ユダヤ系団体や労働組合も反対運動に参加。

カラヤンらをアメリカへ入国させるべきなのかという問題にまで発展し、ついにはアメリカ国務省が対応する事態となりました。

第二次世界大戦の終結から、わずか10年。

カラヤンの過去のナチ党員歴をめぐって、アメリカ社会には強い反発が残っていたのです。

今回はベルリン・フィル公式資料や1955年当時のJewish Telegraphic Agency(JTA)など海外資料をもとに、現在の日本ではあまり詳しく語られていない「1955年ベルリン・フィル初訪米」を追っていきます。

もともとはフルトヴェングラーが指揮する予定だった

ベルリン・フィル初のアメリカ・ツアーは、もともとヴィルヘルム・フルトヴェングラーが指揮する計画でした。

しかしフルトヴェングラーは1954年11月30日に死去。

すでにアメリカ公演の日程は組まれていたため、ベルリン・フィルには代わりの指揮者が必要となります。

そこで選ばれたのが、

ヘルベルト・フォン・カラヤン

でした。

ベルリン・フィルの現在の公式史でも、フルトヴェングラーの死によって翌年予定されていたアメリカ・ツアーの指揮がカラヤンに託されたと説明されています。

カラヤンにとってこれは大きなチャンスでした。

アメリカ・ツアーを成功させれば、フルトヴェングラーの後継者としてベルリン・フィルのトップに立つ可能性が高まります。

しかし同時に、大きな危険も抱えていました。

戦争が終わってまだ10年しか経っていなかった

1955年という時代を考える必要があります。

第二次世界大戦が終結したのは1945年。

ベルリン・フィルがアメリカへ渡ったのは、それからわずか10年後です。

ナチス・ドイツやホロコーストの記憶は、まだ「歴史」ではなく、多くの人にとって実体験そのものでした。

そのベルリンからやって来るオーケストラの指揮者カラヤンには、ナチ党員だった経歴がありました。

さらにベルリン・フィルのマネージャー、ゲルハルト・フォン・ヴェスターマンにもナチ党員歴がありました。

当然ながら、アメリカ国内では、

「なぜこの二人を新しいドイツを代表する文化使節として迎えるのか」

という批判が起きます。

ニューヨークの音楽家750人が公演中止を要求

ベルリン・フィルがアメリカへ到着する前から騒動は始まっていました。

1955年2月21日付のJewish Telegraphic Agencyは、ニューヨークの音楽家約750人がベルリン・フィルのカーネギーホール公演中止を求める請願書に署名したと伝えています。

署名したのはAmerican Federation of Musicians(アメリカ音楽家連盟)Local 802のメンバーでした。

さらに記事では、ニューヨークの音楽家約4,000人に署名を求める計画だったと報じられています。

反対派が問題にしたのはカラヤンだけではありません。

カラヤンと楽団マネージャーのヴェスターマン、両者の過去が批判の対象となっていました。

つまり1955年の騒動は、

「カラヤンという一人の指揮者への抗議」

だけではなかったのです。

ベルリン・フィルのアメリカ・ツアーそのものが、「戦後ドイツをどのように受け入れるのか」という問題にまで発展していました。

「アメリカ政府が援助している」という批判も

音楽家による請願書では、アメリカ政府がベルリン・フィルを援助しているとの批判も出ました。

しかしツアーを担当したColumbia Artists Management側はこれを否定。

ツアーを財政的に支援していたのはアメリカ政府ではなく、西ドイツ政府であると説明しています。

この点からも、このツアーが単なる民間の演奏旅行以上の意味を持っていたことが分かります。

戦後の西ドイツは国際社会への復帰を急いでいました。

世界的なベルリン・フィルをアメリカへ送り出すことは、

「新しい西ドイツ」を文化によって示す絶好の機会

でもあったのです。

ユダヤ系団体や労働組合も反対運動へ

反対運動は音楽家だけではありませんでした。

Jewish War Veterans、Congress for Jewish Culture、Jewish Labor Committeeなど複数の団体がカラヤンの訪米に反対しました。

Jewish Labor Committeeとニューヨーク市CIO Councilは、西ドイツ政府に対して、カラヤンやナチ党と関係していた楽団関係者を本国へ呼び戻すよう要求しています。

また観客に対しては、公演へ行かないという形で意思を示すよう呼びかけました。

つまり、

「演奏が上手いかどうかとは別に、カラヤンの指揮する演奏会へ行くこと自体を考えてほしい」

という運動だったわけです。

アメリカ国務省まで動く

騒動はついにアメリカ政府まで巻き込みます。

音楽家組合側は、カラヤンとヴェスターマンがアメリカへ入国できる資格を本当に持っているのか、国務省に確認を求めました。

これに対してアメリカ国務省は1955年3月、両者について、

ドイツの非ナチ化手続きを経ており、アメリカ入国に必要な法的条件を満たしている

との判断を示します。

したがって、政府がカラヤンの入国を拒否することはありませんでした。

ここで非常に興味深い対立が生まれます。

政府側から見れば、

「法的には入国できる」

という問題。

しかし抗議する人々からすれば、

「法律上入国できることと、われわれが歓迎することは別だ」

という問題です。

この二つはまったく別の話だったのです。

1955年3月1日、カーネギーホール前で大規模抗議

そして1955年3月1日。

ベルリン・フィルはニューヨークのカーネギーホールで初めて演奏しました。

現在のベルリン・フィル公式サイトでも、同楽団のカーネギーホール初公演は1955年3月1日、指揮者はカラヤンだったことが確認できます。

しかし、その会場の外では演奏会とはまったく違う光景が広がっていました。

Jewish Telegraphic Agencyによると、

250人を超えるBetarのメンバー

がカーネギーホール前で抗議活動を行いました。

参加者は会場前を歩きながら抗議し、別のメンバーは観客にベルリン・フィル公演をボイコットするよう求めるビラを配りました。

「No harmony with Nazis」―残されている当時の写真

この1955年の抗議については写真も残っています。

ベルリン・フィル自身が2024年に公開した初訪米回顧記事にも、抗議者と警察官を写した写真が掲載されています。

写真のプラカードには、

「No harmony with Nazis」

という言葉を見ることができます。

ベルリン・フィル自身も現在、このツアーについて「リスクを伴うものだった」と振り返っています。

第二次世界大戦から10年しかたっておらず、ナチ体制の記憶はまだ非常に鮮明だったからです。

しかし会場の中では演奏が続いた

カーネギーホールの外ではカラヤンへの抗議が続いていました。

しかし演奏会そのものは開催されました。

ここに1955年ツアーの非常に興味深い二面性があります。

会場の外ではカラヤンの過去が問われ、会場の中ではベルリン・フィルの演奏が評価される。

政治と音楽が同じ建物の内外で完全に分かれていたような状況でした。

ベルリン・フィルの公式回顧でも、ワシントンで行われた最初の演奏会から、オーケストラの演奏水準はアメリカの聴衆や批評家を納得させたとしています。

抗議はニューヨークだけではなかった

ベルリン・フィルへの反発を、ニューヨークだけの出来事と考えるのも正確ではありません。

各都市のユダヤ系団体から相次いで声明が出されました。

例えばニューアークのJewish Community Council関係組織は、カラヤンの指揮する演奏会に行くことに良心上抵抗を感じる人は出席を控えるよう呼びかけています。

一方で、演奏会をピケなどによって直接妨害するべきではないともしました。

ボストンのJewish Community Councilも、ベルリン・フィルの訪米を「親善ツアー」と表現することに強く反発。

しかし同様に、公演そのものを妨害することには慎重な姿勢を示しています。

ここから分かるのは、反対派も一枚岩ではなかったことです。

  • ツアー自体を中止させるべきだと考える人
  • 公演は行わせるが観客はボイコットすべきだと考える人
  • 抗議声明は出すが演奏を妨害すべきではないと考える人

さまざまな考え方がありました。

デトロイトではカラヤンの演奏が問題に

1955年のツアーで特に強い反発が起きた都市の一つがデトロイトです。

後年のNPRによるカラヤン回顧でも、この訪米時にニューヨークでは公演が抗議され、デトロイトではカラヤンの演奏が認められなかったと紹介されています。

つまりベルリン・フィルのアメリカ訪問は、

「多少の抗議はあったが、すべて予定通り順調に進んだ」

というようなツアーではありませんでした。

ユージン・オーマンディはカラヤンとの握手を拒否

さらに、このツアーには有名な逸話が残っています。

当時フィラデルフィア管弦楽団の音楽監督だった、

ユージン・オーマンディ

です。

ハンガリー出身のユダヤ人だったオーマンディは、ベルリン・フィル訪米時のレセプションでカラヤンとの握手を拒否したと、後年の音楽資料で伝えられています。

これは象徴的な出来事でした。

1950年代以降、

カラヤンのベルリン・フィルとオーマンディのフィラデルフィア管弦楽団は、豪華で美しいオーケストラ・サウンドを持つ世界最高峰の楽団として比較される存在になっていきます。

そんな同業者のオーマンディが、音楽上の理由ではなくカラヤンの過去を理由に握手を拒否したのです。

戦後間もない時代に、カラヤンが置かれていた立場を象徴するエピソードといえるでしょう。

これは「音楽」だけでなく「冷戦」のツアーだった

1955年のベルリン・フィル訪米を理解するには、冷戦という時代背景も無視できません。

戦後のドイツは東西に分断され、西ドイツはアメリカを中心とする西側陣営への参加を進めていました。

そしてベルリン・フィルがアメリカを訪れた1955年、西ドイツはNATOへ加盟します。

そのような時期に世界最高峰のドイツのオーケストラがアメリカを巡ることには、文化外交として大きな意味がありました。

ベルリン・フィル自身も現在、1955年のツアーについて、

ドイツとアメリカの友好的な理解を築く「橋渡し」という政治的側面があった

と説明しています。

しかし、それこそが反対派にとって問題でもありました。

戦争からわずか10年で、ナチ時代と関係していた人物を新しい西ドイツの文化的な顔として受け入れてよいのか。

1955年のベルリン・フィル訪米は、戦後ドイツ社会の過去との向き合い方をアメリカ側から問われるツアーでもあったのです。

それでもベルリン・フィル初のアメリカ・ツアーは成功した

数々の抗議があったものの、ベルリン・フィルのツアーそのものは大きな成果を残しました。

ベルリン・フィル公式資料によれば、初の北米ツアーはアメリカとカナダを巡るもので、フルトヴェングラーの急死によって危機に陥りながらも、カラヤンの指揮で実施されました。

演奏面では聴衆や批評家から高い評価を得ます。

そして、このツアー成功がカラヤンの人生を大きく変えることになります。

翌1956年、カラヤンがベルリン・フィルの首席指揮者へ

ベルリン・フィル公式史には、非常に重要な一文があります。

1955年のアメリカ・ツアーを成功させた後、

カラヤンは1956年にベルリン・フィルの首席指揮者に任命された

のです。

フルトヴェングラーの死によって突然任されたアメリカ・ツアー。

そこで待っていたのは、

  • 音楽家750人による公演中止要求
  • ユダヤ系団体や労働団体からの反発
  • 国務省を巻き込んだ入国問題
  • カーネギーホール前の250人を超える抗議
  • デトロイトでの強い反発
  • オーマンディによる握手拒否

という困難でした。

それを乗り越えてツアーを終えた翌年、カラヤンは正式にフルトヴェングラーの後継者となったのです。

ここから「カラヤン時代」が始まった

1956年にベルリン・フィルのトップとなったカラヤンは、その後1989年まで30年以上にわたって楽団を率いることになります。

世界各地への演奏旅行。

膨大なレコード録音。

テレビや映像メディアへの進出。

そしてベルリン・フィルを世界的ブランドへと押し上げていきました。

現在から振り返れば、1955年のアメリカ・ツアーは、

「カラヤンとベルリン・フィルの時代」が本格的に始まる直前の試練

だったともいえます。

まとめ

1955年のベルリン・フィル初のアメリカ・ツアーは、単なる海外演奏旅行ではありませんでした。

第二次世界大戦終結からわずか10年。

ナチ党員歴を持つカラヤンが、世界を代表するドイツのオーケストラを率いてアメリカへやって来ることに、多くの人々が強い反発を示しました。

一方で、カラヤンとベルリン・フィルの音楽そのものは高く評価されました。

そこには、

「芸術家の過去と、その芸術を分けて考えることができるのか」

という、現在にも続く難しい問題があります。

カーネギーホールの外では抗議。

その一方、ホールの中ではベルリン・フィルの演奏に耳を傾ける観客がいる。

1955年の光景は、戦争が終わったからといって、人々の記憶や感情まで簡単に消えるものではないことを示しています。

そして最大の皮肉は、この困難なアメリカ・ツアーを乗り越えたことが、結果的にカラヤンのベルリン・フィル首席指揮者就任につながったことです。

1955年はカラヤンにとって、過去を厳しく問われた年であると同時に、

その後30年以上続く「カラヤン時代」の入口となった年

でもあったのです。

こちらの記事も読まれています
記事URLをコピーしました