帝王カラヤンより裕福だった兄―ヴォルフガング・カラヤンとは何者か?
ヘルベルト・フォン・カラヤンには、2歳年上の兄ヴォルフガングがいました。電気技術者・実業家として成功し、後にはオルガニストとして活動。1963年の『TIME』誌では弟より裕福だったとも紹介された、その異色の人生をたどります。
ヴォルフガング・カラヤン|「帝王カラヤン」の兄は何者だったのか
ヘルベルト・フォン・カラヤンといえば、ベルリン・フィルを長年率い、世界各地で演奏・録音活動を続けた20世紀を代表する指揮者です。
演奏会、レコード、映像制作などを通じて大きな成功を収め、豪華な邸宅や自動車、ヨット、航空機などでも知られました。
そんなカラヤンには、2歳年上の兄がいました。
その名は、ヴォルフガング・カラヤン(Wolfgang Karajan)です。
そして興味深いことに、1963年の『TIME』誌は、弟ヘルベルトが高額な演奏料や録音料を得ていたにもかかわらず、当時は兄ヴォルフガングの方が裕福だったと紹介しています。
では、カラヤンの兄とはどのような人物だったのでしょうか。
カラヤンの2歳上の兄、ヴォルフガング
ヴォルフガング・カラヤンは1906年、オーストリアのザルツブルクに生まれました。
弟ヘルベルトは1908年生まれですから、およそ2歳違いの兄弟です。
父エルンストはザルツブルクで活動した外科医で、兄弟は比較的裕福で音楽的な環境の中で育ちました。
二人とも幼少期から音楽教育を受け、ヴォルフガングは特にオルガンに強い関心を持つようになります。
兄が最初に選んだ道は「電気技術者」
しかし、ヴォルフガングが最初から音楽家を職業にしたわけではありません。
ウィーン工科大学で電気工学を学び、その後は技術者として活動しました。
『TIME』誌では、電子工学を学んだ後、医療用電気機器の発明・製造に関わり、実業家として成功した人物として紹介されています。
つまり弟ヘルベルトが指揮台で名声を高めていた頃、兄ヴォルフガングはまったく別の分野で成功していたのです。
1963年『TIME』誌は「兄の方が裕福」と紹介
ヴォルフガングを語るうえで、最も印象的なのが1963年3月1日付『TIME』誌の記事です。
記事では、弟ヘルベルトについて、非常に高額な演奏料や録音料を得る国際的指揮者として紹介しています。
そのうえで、それでも当時はヴォルフガングの方が裕福だったと記されています。
1963年といえば、ヘルベルト・フォン・カラヤンはすでにベルリン・フィルの首席指揮者であり、録音の世界でも大きな存在となっていました。
その弟と比較されるほど、兄の事業が成功していたという点は非常に興味深いところです。
「弟より裕福」は1963年時点の話
ただし、この点は少し慎重に見る必要があります。
『TIME』誌がヴォルフガングとヘルベルトの総資産を詳細な金額で比較しているわけではありません。
また、これはあくまで1963年時点の評価です。
その後ヘルベルトは、さらに多くの録音や映像制作、ザルツブルクでの活動などを展開していきます。
そのため、
「生涯を通して兄の方が裕福だった」
とまで断定することはできません。
それでも、世界的指揮者となった弟と比較されるほど、ヴォルフガングの事業が成功していたことは確かです。
実業家として成功した後、再び音楽へ
技術者・実業家として活動したヴォルフガングでしたが、その後は再び音楽へ大きく軸足を移していきます。
1950年代には、自らオルガン・アンサンブルを組織して演奏活動を行うようになりました。
特に力を入れていた作品のひとつが、バッハの《フーガの技法》です。
1963年に『TIME』誌が取り上げた頃には、事業活動よりも音楽への関心がかなり大きくなっていたようです。
3台のオルガンを車に積んで演奏旅行
ヴォルフガングの演奏活動には、普通のオルガニストとは少し違う面白さがありました。
彼のアンサンブルは、3台の小型パイプオルガンを使用していました。
しかも演奏会場のオルガンを使うのではなく、自分たちの楽器を運搬していたとされています。
『TIME』誌の記事では、木製のオルガンを車に積み込み、自ら運転して各地へ演奏旅行する姿が紹介されています。
世界各地の大ホールを飛び回る弟ヘルベルト。
一方、兄ヴォルフガングはオルガンを車に積み、自ら移動しながら演奏会を開く。
兄弟の活動スタイルはかなり対照的でした。
兄もかなりの機械好きだった
一方で、兄弟にはよく似た部分もありました。
そのひとつが機械や技術への強い関心です。
弟ヘルベルトが自動車、ヨット、航空機、録音・映像機器などを好んだことはよく知られています。
兄ヴォルフガングも電気工学を学び、医療機器の開発に携わり、若い頃にはモータースポーツにも興味を持っていたとされています。
電気技術、医療機器、オルガン、自動車やオートバイ。
進んだ道は違っても、兄も弟も機械や技術に強い関心を持つ人物でした。
兄弟に共通した「音楽と技術」への興味
この共通点は非常に興味深いものです。
ヴォルフガングは、技術そのものを職業として選びました。
一方ヘルベルトは指揮者となりながら、録音、映像、デジタル技術などへ強い関心を示しました。
つまり、
という対照的な関係だったともいえます。
カラヤン家の環境そのものが、音楽と技術の両方に関心を持ちやすいものだったのかもしれません。
兄弟関係は常に円満だったわけではない
ただし、兄弟がいつも良好な関係だったとは限らないようです。
カラヤン研究所などの資料では、ヴォルフガングが自身の演奏団体を「Organ Ensemble Wolfgang Karajan」と名乗り、「Karajan」の名前を大きく使って宣伝したことを、ヘルベルトが快く思っていなかったという話が紹介されています。
世界的に「Karajan」という名前が強いブランドのようになっていた時代です。
弟としては、自分との区別が曖昧になることに複雑な感情があったのかもしれません。
ただし、この点については関係者の証言や後年の記述に基づく部分もあるため、兄弟関係全体が悪かったとまで考える必要はないでしょう。
晩年には兄弟で録音する計画もあった
むしろ晩年には、興味深い共同企画も検討されていたとされています。
ヘルベルト・フォン・カラヤンは、兄ヴォルフガングと一緒にレコードを制作することを考えていたというのです。
候補となっていた作品は、ヴォルフガングが得意としていたバッハの《フーガの技法》でした。
もし実現していれば、
ヘルベルト・フォン・カラヤンとヴォルフガング・カラヤンによる兄弟共演録音
という非常に珍しい音源が残されていたことになります。
残念ながら、この計画は実現しませんでした。
1987年、弟より先に亡くなる
ヴォルフガング・カラヤンは1987年、ザルツブルクで亡くなりました。
弟ヘルベルトが亡くなったのは1989年7月ですから、兄の方が約2年早く世を去ったことになります。
生没日の細部については資料によって表記が異なる場合もありますが、1987年に亡くなった点は共通しています。
「カラヤンの兄」だけでは語れない人物
ヴォルフガング・カラヤンの人生を見ていくと、「有名な指揮者の兄」というだけでは説明できない人物だったことが分かります。
1963年の『TIME』誌が、世界的指揮者となった弟ヘルベルトと比較してなお、兄の方が裕福だったと紹介したことも、ヴォルフガングの成功の大きさを物語っています。
まとめ|弟とは別の道で成功したヴォルフガング・カラヤン
ヘルベルト・フォン・カラヤンの兄ヴォルフガングは、音楽家だけでも、技術者だけでもありませんでした。
電気技術者・実業家として成功した後、オルガンを中心とする音楽活動へ力を注ぎ、自ら楽器を運びながら演奏旅行も行いました。
そして兄弟には、
音楽と機械・技術の両方に強い関心を持っていた
という興味深い共通点があります。
兄は技術の世界から音楽へ戻り、弟は音楽の世界から録音・映像技術へ関心を広げた。
ヴォルフガングという人物を知ると、ヘルベルト・フォン・カラヤン自身の機械や新技術への好奇心も、少し違った角度から見えてきます。
「帝王カラヤンの兄」ではなく、別の分野で成功し、独自の音楽活動を続けた一人の人物として見ると、ヴォルフガング・カラヤンの人生は非常に興味深いものがあります。





