1988年、カラヤンはなぜベルリン公演をキャンセルして日本へ?「病欠騒動」の真相
1988年、カラヤンはベルリンでの重要公演を体調不良でキャンセルした直後、日本ツアーへ向かいました。この出来事はベルリンで反発を招き、海外公演の契約やCAMIとの関係、市当局との対立へ発展します。最後の来日の裏側を振り返ります。
1988年カラヤン「ベルリン公演キャンセル騒動」と最後の日本ツアー
1988年4月、80歳になったばかりのヘルベルト・フォン・カラヤンをめぐり、西ベルリンで大きな騒動が起きました。
カラヤンは、ベルリンで予定されていた重要な演奏会を体調不良を理由にキャンセルします。
ところが、その直後にはベルリン・フィルとともに日本へ向かい、数日後には日本で指揮台に立ちました。
ベルリン側から見れば、
「ベルリンでは病気で指揮できなかったのに、なぜ日本では指揮できるのか」
という疑問が生まれます。
この一件は、単なる公演キャンセルでは終わりませんでした。
カラヤンの海外ツアー、マネージメント会社との契約、ベルリン・フィルとベルリン市の関係まで注目され、市当局を巻き込む問題へと発展していきます。
そして翌1989年、カラヤンは30年以上務めたベルリン・フィル首席指揮者を辞任しました。
1988年最後の日本ツアーの裏側で、ベルリンでは何が起きていたのでしょうか。
1988年4月24日、ベルリンの重要公演をキャンセル
1988年の西ベルリンでは、ヨーロッパ文化都市の関連行事が行われていました。
その一環として、4月24日にはカラヤンとベルリン・フィルによる注目の公演が予定されていました。
しかしカラヤンは、体調不良を理由に出演を取りやめます。
当時カラヤンは80歳。
1980年代半ば以降、健康状態が悪化していたことは広く知られていました。
腰や脊椎などの問題を抱え、歩行や長時間の指揮そのものが身体的な負担になっていたとされています。
1986年のベルリン・フィル日本公演でも、カラヤンは健康上の理由から来日を断念し、代役の指揮者が公演を担当しました。
したがって、1988年4月の欠演について、単純に「仮病だった」と断定することはできません。
問題となったのは、その直後の行動でした。
病欠の直後に日本ツアーへ出発
カラヤンはベルリンでの公演をキャンセルした後、ベルリン・フィルとともに日本へ向かいました。
当時のドイツ紙や海外メディアは、この流れを批判的に報じています。
ベルリンで重要な公演を欠演した直後に長距離移動を行い、日本では再び指揮台に立ったためです。
地元ベルリンの聴衆からすれば、
「ベルリンの公演には出られなかったのに、日本ツアーには参加できるのか」
と感じたとしても不思議ではありません。
カラヤン本人の健康状態とは別に、この出来事がベルリンで強い不信感を生んだことは重要です。
1988年の日本ツアーは予定通り開催
日本ツアー自体は予定通り行われました。
カラヤンはベルリン・フィルを率いて大阪、東京などで演奏会を行います。
そして、この1988年の来日は結果としてカラヤン最後の日本訪問となりました。
東京ではサントリーホールの指揮台にも立ち、ベルリン・フィルとの演奏を残しています。
サントリーホールは、建設時にカラヤンが助言を行ったことで知られるホールです。
日本のクラシックファンから見れば、1988年のツアーはカラヤン&ベルリン・フィル時代の最後を象徴する特別な来日公演でした。
しかし、同じツアーをベルリン側ではまったく違った視点から見ていた人たちがいました。
「ベルリンより海外を優先している」という不満
問題の背景には、この一件以前から積み重なっていた不満がありました。
カラヤンはベルリン・フィルの首席指揮者でありながら、ザルツブルク、ウィーン、海外ツアー、レコード録音、映像制作など、世界各地で活動していました。
その一方、晩年にはベルリンで指揮する機会が以前ほど多くないと受け止められるようになります。
1988年にはドイツ紙が、カラヤンについて「首席指揮者というより客演指揮者」という趣旨の表現を用いて、ベルリンとの距離を批判的に論じました。
30年以上ベルリン・フィルを率いてきたカラヤンが、地元でこのように評されるほど、ベルリンとの関係は緊張していたのです。
ベルリン市文化当局も動き始めた
騒動は、音楽ファンや新聞の批判だけにはとどまりませんでした。
ベルリン市の文化行政側も、ベルリン・フィルの海外活動や契約について関心を強めていきます。
そこで焦点となったのが、カラヤンやベルリン・フィルの海外公演に関わっていたマネージメント会社Columbia Artists Management Inc.(CAMI)でした。
ベルリン側が問題としていたのは、
「ベルリン・フィルの海外公演について、誰がどのような権限と契約のもとで動かしているのか」
という点です。
ベルリン・フィルはカラヤン個人のオーケストラではありません。
ベルリン市と深く結びつく組織である以上、市側が海外活動の契約内容を確認したいと考えるのは自然な流れでした。
前年の台湾公演問題も背景にあった
ベルリン市側が海外ツアーの契約に敏感になっていた背景には、前年から続いていた台湾公演問題もありました。
カラヤンとベルリン・フィルによる台湾公演計画では、公演料に加えてカラヤン関連の映像作品の権利購入が条件に含まれていたと報じられました。
ベルリン・フィル第一ヴァイオリン奏者ヘルムート・シュテルンも、この交渉内容に疑問を持ち、問題を追及した人物のひとりです。
台湾公演は実現しませんでしたが、この一件を通してCAMIとベルリン・フィルの海外公演契約に対する疑問が強まっていました。
その直後に起きたのが、今回の「ベルリン公演を欠演した直後に日本へ向かった」という出来事だったわけです。
台湾公演問題については、こちらの記事で詳しく紹介しています。
日本ツアーやアメリカツアーの契約も問題に
ベルリン側は、台湾公演だけでなく、日本ツアーや、その後に予定されていた海外公演についても契約内容の説明を求めたと報じられています。
しかし、契約関係が十分に明らかにならなかったことが、さらに不信感を強めました。
こうして論点は、
「カラヤンがベルリンの演奏会を休んだ」
という個人の問題から、
「ベルリン・フィルの海外活動を実際に誰が管理しているのか」
という組織と契約の問題へ広がっていきます。
アメリカツアー中止へ発展
ベルリン側とマネージメントをめぐる対立は、その後予定されていた海外公演にも影響しました。
日本ツアーはすでに日程が迫っていたこともあり実施されましたが、その後予定されていたアメリカ方面のツアーは中止されたと報じられています。
世界的なオーケストラの海外公演が、演奏上の問題ではなく、契約や管理体制をめぐる対立の中で変更されるという異例の事態でした。
このことからも、カラヤン、ベルリン・フィル、ベルリン市との関係がかなり緊張していたことが分かります。
市議会でもカラヤンをめぐる問題が議論
問題はさらにベルリンの政治・行政レベルへ広がりました。
海外公演の契約だけでなく、録音や映像に関係する契約、マネージメント会社の権限なども検討対象になったと報じられています。
つまり1988年の騒動は、一公演の欠演をきっかけに、長年積み重なっていた組織上の問題が一気に表面化した出来事だったと言えます。
以前から体調による公演変更はあった
ベルリン側が1988年の欠演に敏感になった背景には、以前にもカラヤンの健康状態をめぐって公演予定が変更されたことがありました。
1980年代後半には、体調不良による出演変更やキャンセルが複数報じられています。
カラヤンはすでに高齢で、長時間の移動や指揮そのものが身体的な負担になっていました。
そのため、予定通り出演できるかどうかが直前まで分からないケースもあったようです。
こうした状況が積み重なったところへ、1988年4月のベルリン欠演と日本ツアーが重なったことで、批判が一気に強まったと考えられます。
本当に仮病だったのか
ここは慎重に考える必要があります。
当時の一部報道は、ベルリン公演を欠演してすぐ日本へ向かったカラヤンをかなり批判的に扱いました。
しかし、カラヤン自身が実際に深刻な健康問題を抱えていたことも事実です。
80歳という年齢に加え、脊椎や歩行に関する問題もあり、長時間の指揮には大きな負担がありました。
1986年には健康上の理由から日本ツアーそのものを取りやめています。
したがって、
「日本へ行ったのだから、ベルリンでの病気は嘘だった」
とまでは言えません。
短期間で体調が回復した可能性もありますし、その後の長期ツアーに備えて無理を避けた可能性も考えられます。
一方で、ベルリン市民の立場から見れば、
重要なベルリン公演を欠演 → 直後に日本へ移動 → 日本では指揮
という流れが不信感を生んだことも理解できます。
ザビーネ・マイヤー事件だけでは説明できない晩年の対立
カラヤンとベルリン・フィルの晩年の対立として最も有名なのは、ザビーネ・マイヤーの採用をめぐる問題です。
しかし1980年代後半まで追うと、両者の対立が人事だけではなかったことが分かります。
台湾公演をめぐる契約問題。
海外ツアーとCAMIの関係。
ベルリン市との緊張。
録音・映像ビジネス。
そしてカラヤン本人の健康問題。
複数の問題が同時期に重なっていました。
翌1989年、カラヤンはベルリン・フィルを辞任
そして1989年4月、カラヤンはベルリン・フィル首席指揮者を辞任する意向を表明しました。
辞任の理由を1988年の日本ツアー騒動だけに求めることはできません。
しかし、当時の報道を見ると、カラヤンとベルリン、そしてベルリン・フィルとの関係が以前とは大きく変化していたことが分かります。
健康問題だけでなく、楽団員との対立、市との関係、海外公演や契約の問題などが複雑に絡み合っていました。
その意味で1988年は、30年以上続いたカラヤン時代が終盤に入ったことを強く印象づける年でした。
最後の日本ツアーの裏で起きていたベルリンとの対立
日本のクラシックファンにとって、1988年のカラヤン&ベルリン・フィル来日は特別な公演として記憶されています。
カラヤン最後の来日であり、サントリーホールでベルリン・フィルを指揮した貴重な機会でもありました。
しかし、その華やかな日本公演の裏側では、ベルリンでカラヤンに対する不満が高まっていました。
重要なベルリン公演を体調不良でキャンセルした直後に日本へ向かったことが、その不満を表面化させるきっかけとなります。
さらに前年の台湾公演問題から続く海外ツアー契約への疑問、CAMIとの関係、ベルリン市当局との対立へと問題は広がっていきました。
ザビーネ・マイヤー事件だけを見れば、カラヤンとベルリン・フィルの晩年の対立は人事問題のように見えます。
しかし、1980年代後半の出来事を並べてみると、実際には人事、契約、海外活動、録音・映像ビジネス、健康問題などが複雑に重なっていたことが分かります。
1988年の日本ツアーは、日本ではカラヤン&ベルリン・フィル最後期の貴重な演奏として記憶される一方、ベルリンでは長いカラヤン時代の終わりが近づいていることを感じさせる出来事でもありました。






