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カラヤンとベルリン・フィルの台湾公演はなぜ中止に?シュテルンが告発した1987年の騒動

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1980年代末、ヘルベルト・フォン・カラヤンとベルリン・フィルの関係は急速に悪化していった。

その原因としてよく知られているのが、クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーの入団をめぐる対立である。しかし、カラヤン晩年にはそれとは別に、ベルリン・フィルを巻き込んだ大きな騒動が起きていた。

それが、1987年に計画されたベルリン・フィルの台湾公演をめぐる問題である。

公演は結局実現しなかった。そして、この一件を追及した人物の一人が、長年ベルリン・フィルで演奏していた第一ヴァイオリン奏者ヘルムート・シュテルンだった。

カラヤンの映像作品を見てると、よく目にする人物である。

ベルリン・フィルに台湾公演の計画があった

1987年、カラヤンとベルリン・フィルは極東ツアーを計画していた。

そのころ台湾では台北の国家音楽庁が完成したばかりで、世界有数のオーケストラを招く環境が整いつつあった。

ここで台湾との橋渡し役になったのが、ベルリン・フィルの第一ヴァイオリン奏者ヘルムート・シュテルンである。

シュテルンは若いころ、ナチス・ドイツを逃れて家族とともに満州で生活していた経験を持つ。その後イスラエルやアメリカを経てベルリンへ戻り、1961年にベルリン・フィルへ入団した。

アジアとの縁も深かったシュテルンは、台湾でベルリン・フィル公演を実現できないか可能性を探ったという。

ところが、その後の交渉はシュテルンの予想とはまったく違う方向へ進んでいった。

台湾側に提示された「60万マルク」

台湾との交渉には、アメリカの大手音楽マネージメント会社CAMIが関わっていた。

1987年10月に台湾側へ送られたとされる文書では、カラヤンとベルリン・フィルによる2回の演奏会について、60万ドイツマルクの支払いが求められていた。

しかし、問題はそれだけではなかった。

さらにカラヤンとベルリン・フィル、あるいはウィーン・フィルによる映像番組10本について、台湾での放映権を購入することも条件に含まれていたと報じられている。

その金額は1番組3万5000ドル、10本で合計35万ドルだった。

つまり、演奏会を招くだけではなく、カラヤン関連の映像作品まで同時に購入することを求める内容だったことになる。

現在の感覚で言えば、一種の「セット契約」に近いものだった。

台湾側は条件を受け入れず、公演は幻に

台湾側はこの条件を受け入れなかった。

その結果、期待されていたカラヤンとベルリン・フィルの台湾公演は実現しなかった。

ところがシュテルンにとって不可解だったのは、自分が台湾との間を取り持ったにもかかわらず、なぜ公演が突然立ち消えになったのかということだった。

台湾の知人から「提示された条件を受け入れられない」と伝えられたシュテルンは、詳しい事情を調べ始めた。

そして、台湾側へ送られた交渉文書のコピーを入手したとされる。

シュテルンはなぜ問題視したのか

シュテルンが問題視したのは、単純に「カラヤンの出演料が高すぎる」という話ではなかったようだ。

ベルリン・フィルはベルリンという都市と密接に結びついたオーケストラである。

そのベルリン・フィルの海外公演が、カラヤン個人に関連する映像ビジネスと結びつけられているように見えたことが、楽団員側に大きな疑問を抱かせた。

しかも、提示された金額の内訳がどのようになっていたのか、誰にどの程度の利益が入る仕組みだったのかについても疑問が残った。

この問題は、単なる高額ギャラの問題から、カラヤン、マネージメント会社、そしてベルリン・フィルとの関係へと発展していく。

『デア・シュピーゲル』が「お金の魔術師」と報道

1988年になると、この問題はドイツの有力週刊誌『デア・シュピーゲル』によって大きく報じられた。

同誌はカラヤンの音楽活動だけではなく、レコード、映像、海外公演などを含めた巨大なビジネスにも焦点を当てた。

特集ではカラヤンを「金融の魔術師」「お金の魔術師」といった意味を持つ表現で紹介し、表紙でもカラヤンと金銭を結びつける強烈なイメージが使われた。

世界最高峰の指揮者として君臨してきたカラヤンにとって、かなり厳しい内容だったことは間違いない。

ベルリン市まで問題視する事態に

騒動はカラヤンと楽団員だけの問題では収まらなかった。

当時のベルリン市側も海外ツアーの契約内容を問題視するようになり、マネージメント会社との契約の透明性が問われた。

1988年にはベルリン・フィルのアメリカ・ツアーが中止される事態にも発展している。

当時のドイツ紙の記事を読むと、台湾公演をめぐる疑惑について「完全には解明されていない」とする見方も出ていた。

したがって、60万マルクのすべてがカラヤン個人に支払われる予定だった、と単純に考えるのは正確ではない。

むしろ問題の核心は、ベルリン・フィルの公演を誰が、どのような契約で動かしていたのかが外部から見えにくかったことにあったと考えた方がよいだろう。

カラヤン本人はどこまで関与していたのか

ここで慎重に考えなければならない点がある。

台湾側への具体的な条件提示を行ったのはマネージメント会社であり、提示されたすべての金額をカラヤン自身が決めていたと断定できるわけではない。

一方で、カラヤンとマネージメント会社の関係が非常に密接だったことや、カラヤンが音楽だけでなく録音・映像制作にも強い影響力を持っていたことから、当時大きな批判が彼自身にも向けられた。

このあたりが、台湾問題を単純な「カラヤン金銭スキャンダル」として片付けられないところでもある。

ザビーネ・マイヤー事件だけではなかったカラヤン晩年

カラヤンとベルリン・フィルの晩年の対立というと、ザビーネ・マイヤー事件が特に有名である。

カラヤンがマイヤーの採用を強く望んだのに対し、楽団員側が反対したことで、指揮者とオーケストラの亀裂が表面化した。

しかし台湾公演問題を見ると、両者の対立は人事問題だけではなかったことが分かる。

海外公演、録音、映像制作、報酬、マネージメント、そしてカラヤンが持っていた巨大な権力。

長年「カラヤン帝国」とまで呼ばれるほど強大になった体制そのものに対し、ベルリン・フィルの内部から疑問が出始めていたのである。

ヘルムート・シュテルンが果たした役割

この事件で興味深いのがヘルムート・シュテルンの存在である。

彼は外部のジャーナリストではない。

長年カラヤンのすぐ近くで演奏してきたベルリン・フィルの楽団員だった。

その人物が、自ら橋渡しした台湾公演の交渉に疑問を持ち、資料を入手して問題を追及した。

当然ながら、これによってカラヤン側との関係が良好になるはずもない。

台湾問題以降、シュテルンはカラヤン体制に批判的な楽団員の一人として知られるようになっていった。

カラヤン退任の前年に起きた大騒動

台湾問題が大きく報道されたのは1988年。

しかも同じ1988年には、カラヤンをめぐってもう一つ大きな騒動が起きている。

ベルリンで予定されていた重要な公演を体調不良でキャンセルした直後、カラヤンはベルリン・フィルとともに日本ツアーへ出発。数日後には大阪で指揮台に立ったことから、ベルリンでは「なぜベルリンでは指揮できないのに、日本へは行けるのか」と強い反発が起きた。

この問題は単なる公演キャンセルにとどまらず、ベルリン市とカラヤン側のマネージメント会社との契約問題にまで発展していった。1988年の最後の日本ツアーの裏側で何が起きていたのかは、こちらの記事で詳しく紹介している。

そして翌1989年4月、カラヤンはベルリン・フィル首席指揮者の辞任を表明する。

同年7月16日、カラヤンはオーストリアのアニフで亡くなった。

もちろん、台湾問題だけが辞任の原因だったわけではない。

しかし、1950年代から30年以上続いてきたカラヤンとベルリン・フィルの蜜月が終わっていく時期に、この問題が起きたことは非常に象徴的である。

世界最高峰の指揮者と世界最高峰のオーケストラ。

その華麗な歴史の最後には、音楽そのものだけではなく、権力、契約、金銭をめぐる激しい対立も存在していたのである。

幻となった台湾公演が残したもの

もし1987年の交渉が順調に進んでいれば、台湾の聴衆はカラヤン指揮ベルリン・フィルという黄金時代最後期の演奏を聴くことができたかもしれない。

しかし公演は実現せず、それどころか交渉内容がベルリンへ逆流し、カラヤンとベルリン・フィルを取り巻く巨大なビジネスのあり方まで問われることになった。

ザビーネ・マイヤー事件ほど日本では知られていないが、カラヤン晩年を知るうえで非常に興味深い事件である。

そして、この騒動の発端にベルリン・フィルの一人のヴァイオリン奏者、ヘルムート・シュテルンがいたことも忘れてはならない。

彼は、2020年3月21日に91歳で亡くなりました。カラヤン時代のベルリン・フィルを内側から知る重要な証言者の一人が、またこの世を去ったことになります。

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