カラヤンが愛したピアニスト、ワイセンベルク―偶然の出会いから最後の共演まで
カラヤンが長年にわたり信頼したピアニストの一人が、アレクシス・ワイセンベルクです。一本の演奏映像をきっかけに出会い、ベートーヴェン、ラフマニノフ、日本公演まで共演を重ねた二人の関係をたどります。
アレクシス・ワイセンベルク|カラヤンが長く共演したピアニスト
ヘルベルト・フォン・カラヤンは、生涯に数多くの著名なピアニストと共演しました。
ヴィルヘルム・バックハウス、クララ・ハスキル、ヴァルター・ギーゼキング、グレン・グールド、スヴャトスラフ・リヒテル、ヴラディーミル・アシュケナージなど、その顔ぶれは非常に豪華です。
その中でも、長年にわたってカラヤンと継続的に共演したピアニストの一人が、ブルガリア出身のアレクシス・ワイセンベルクでした。
二人の出会いは、通常のオーディションやレコード会社の企画から始まったわけではありません。
きっかけとなったのは、一本のピアノ演奏の映像でした。
《ペトルーシュカ》の映像が二人を結びつけた
1960年代半ば、カラヤンは映像制作にも積極的に取り組んでいました。
その関連で上映されたのが、映画監督オーケ・ファルクが撮影したストラヴィンスキー《ペトルーシュカからの3楽章》のピアノ演奏映像でした。
そこで演奏していたのが、アレクシス・ワイセンベルクです。
カラヤンはスクリーン上の演奏に強い関心を示し、このピアニストに会いたいという趣旨の言葉を口にしたと伝えられています。
すると、その場にはワイセンベルク本人も同席していたという逸話が残っています。
自分の演奏映像を見ているカラヤンの近くに、本人がいたという印象的な出会いでした。
ワイセンベルクはすでに国際的に知られたピアニストだった
もっとも、これはカラヤンが無名の新人を発掘したという話ではありません。
ワイセンベルクは1929年、ブルガリアのソフィアに生まれました。
第二次世界大戦中には、ユダヤ系の家庭に生まれたことから厳しい状況を経験し、その後アメリカへ渡ります。
ジュリアード音楽院で学び、1947年にはレーヴェントリット国際コンクールで優勝しました。
若くして国際的な演奏活動を始めましたが、1950年代後半からは演奏活動を大幅に減らします。
自分自身の演奏や音楽との向き合い方を見直すため、長期間にわたって表舞台から距離を置いたとされています。
そして1960年代半ば、再び本格的な演奏活動へ戻ろうとしていた時期にカラヤンと出会いました。
ワイセンベルクの復帰を後押ししたカラヤン
ワイセンベルク本人は後年、カラヤンとの出会いが自分の復帰に大きな意味を持ったという趣旨で語っています。
そのため二人の関係は、単なる有名指揮者と有名ピアニストの共演以上のものでした。
長い活動休止を経て、第二のキャリアを始めようとしていたワイセンベルクにとって、カラヤンとの共演は国際舞台への本格復帰を後押しする大きな機会となりました。
1960年代後半から、二人はチャイコフスキー、ラフマニノフ、ベートーヴェン、ブラームスなどで共演を重ねていきます。
なぜカラヤンとワイセンベルクは相性がよかったのか
ワイセンベルクの演奏には、非常に明確な特徴があります。
一方のカラヤンも、オーケストラの音色、バランス、テンポ、フレージングを細かく設計するタイプの指揮者でした。
そのため、両者には精密さや構築性という共通点があったと考えられます。
一方で、ワイセンベルク自身が語ったカラヤン像は、単なる「冷徹な完璧主義者」というものではありません。
1970年代のインタビューでは、カラヤンの特徴として非常に高い集中力を挙げています。
リハーサルから本番へ向かう中で、その集中が共演者にも伝わり、細かな説明をしなくても意思が通じるような感覚になることがあったと語っています。
二人の関係は、カラヤンが一方的にピアニストを支配したというより、互いに強い音楽観を持ちながら同じ方向へ進める関係だったと見る方が自然でしょう。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集でも共演
二人の関係を象徴する録音のひとつが、ベートーヴェンのピアノ協奏曲です。
カラヤンはベートーヴェンの交響曲を何度も録音しましたが、ピアノ協奏曲でもワイセンベルクとまとまった録音を残しています。
カラヤンはリヒテルやアシュケナージなど他の著名なピアニストとも共演しました。
その中で、ワイセンベルクとベートーヴェンの協奏曲を継続的に取り上げたことからも、音楽的な信頼関係の深さがうかがえます。
《皇帝》でも繰り返し共演
特に興味深いのが、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番《皇帝》です。
1970年代、カラヤンは演奏会でこの作品を取り上げる際、ワイセンベルクと繰り返し共演しました。
《皇帝》は、ピアノの華やかさとオーケストラのスケール感の両方が必要な作品です。
そうした作品を長期間にわたってワイセンベルクに任せていたことからも、カラヤンが彼の演奏を信頼していたことが分かります。
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ラフマニノフでも共演を残した
カラヤンとワイセンベルクの共演盤として知られているのが、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番です。
カラヤンの大きなスケールのオーケストラと、ワイセンベルクの輪郭の明確なピアノが組み合わされた録音です。
過度に感傷的な方向へ傾くというより、作品全体の構造を大きく描く演奏として聴くことができます。
カラヤンがワイセンベルクのラフマニノフを高く評価していたという証言もあり、単なる共演相手ではなく、一人のピアニストとしてその演奏を評価していたことがうかがえます。
1977年、ワイセンベルクはカラヤンと日本へ
日本のカラヤン・ファンにとって重要なのが、1977年のベルリン・フィル日本公演です。
この来日公演には、ワイセンベルクもソリストとして参加しました。
カラヤンとベルリン・フィルは、このツアーでベートーヴェン作品を中心とする大規模な公演を行っています。
ワイセンベルクも東京や大阪でカラヤン、ベルリン・フィルと共演しました。
東京・普門館では、ベートーヴェンのピアノ協奏曲でも共演しています。
これは、ワイセンベルクがスタジオ録音のためだけにカラヤンと組んだピアニストではなかったことを示しています。
海外ツアーにも同行し、実際の演奏会で協奏曲を任される重要な共演者でした。
最後の共演はガーシュウィン《ラプソディ・イン・ブルー》
そして1979年、二人の共演関係は意外な作品で一区切りを迎えます。
ベルリンで開かれた演奏会で取り上げられたのが、ガーシュウィンの《ラプソディ・イン・ブルー》でした。
ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーなどドイツ・オーストリア系の作品のイメージが強いカラヤンにとって、ガーシュウィンは比較的珍しいレパートリーです。
そのピアノをワイセンベルクが担当しました。
この演奏会が、カラヤンとワイセンベルクの最後の共演になったとされています。
1960年代の出会いから始まり、最後がベートーヴェンやラフマニノフではなくガーシュウィンだったというのも興味深いところです。
カラヤンにとってワイセンベルクはどんなピアニストだったのか
カラヤンは、その時代を代表する多くのピアニストと共演できる立場にありました。
その中でワイセンベルクとは、録音だけでなく演奏会や海外ツアーでも長く共演しています。
背景には、
といった要素があったと考えられます。
一本の《ペトルーシュカ》の映像をきっかけに出会い、その後十年以上にわたって録音と演奏会を重ねた二人。
ワイセンベルクは、カラヤンが継続的に信頼して共演したピアニストの一人だったと言えるでしょう。
まとめ|映像から始まったカラヤンとワイセンベルクの関係
カラヤンとアレクシス・ワイセンベルクの関係は、偶然に近い映像上映から始まりました。
長い活動休止から復帰しようとしていたワイセンベルクと、新しい才能や表現に敏感だったカラヤン。
二人はその後、
などで共演を重ねました。
1977年にはベルリン・フィルの日本ツアーにも同行し、スタジオだけでなく実演でもカラヤンの重要なパートナーとなっています。
「カラヤンが愛したピアニスト」と断定するよりも、カラヤンが長年にわたって高く評価し、信頼して共演を続けたピアニストと表現するのが、その関係を最も正確に表しているでしょう。






