カラヤンが愛したピアニスト、ワイセンベルク―偶然の出会いから最後の共演まで
ヘルベルト・フォン・カラヤンは、生涯に数多くの名ピアニストと共演しました。
ヴィルヘルム・バックハウス、クララ・ハスキル、ヴァルター・ギーゼキング、グレン・グールド、スヴャトスラフ・リヒテル、ヴラディーミル・アシュケナージ――。
しかし、その中でも長年にわたりカラヤンと特別な関係を築いたピアニストがいました。
ブルガリア出身のアレクシス・ワイセンベルクです。
二人の出会いは、通常のオーディションやレコード会社の企画から始まったものではありませんでした。
きっかけとなったのは、一本のピアノ演奏の映像でした。
スクリーンのピアニストに釘付けになったカラヤン
1966年頃、カラヤンはスヴャトスラフ・リヒテルを独奏者に迎え、チャイコフスキーの《ピアノ協奏曲第1番》を映像作品として制作する計画を進めていました。
その映像制作に関わる監督候補として名前が挙がったのが、スウェーデンの映画監督オーケ・ファルクでした。
カラヤンのために上映されたのが、ファルクが撮影したストラヴィンスキー 《ペトルーシュカからの3楽章》 のピアノ演奏映像です。
そこでピアノを弾いていたのが、アレクシス・ワイセンベルクでした。
スクリーンに映し出されたワイセンベルクの演奏を見たカラヤンは、強い興味を示しました。
そして、
「このピアニストに会いたい」
と口にしたといいます。
すると返ってきた答えは、思いがけないものでした。
「簡単ですよ。あなたのすぐ後ろに座っています」
実は、その上映会にはワイセンベルク本人が出席していたのです。
自分の演奏映像を見ているカラヤンのすぐ後ろに、その本人が座っていた――。
まるで映画のワンシーンのような出会いでした。
ワイセンベルクは無名の新人ではなかった
もっとも、これはカラヤンが無名の若者を発掘したという話ではありません。
アレクシス・ワイセンベルクは1929年、ブルガリアのソフィアに生まれました。
第二次世界大戦中には、ユダヤ系だったワイセンベルクと母親がブルガリアから逃れようとして拘束されるなど、過酷な経験もしています。
戦後はアメリカへ渡り、ジュリアード音楽院で学びました。
1947年にはレーヴェントリット国際コンクールで優勝し、若くして国際的な演奏活動を開始します。
ところが1950年代後半から、ワイセンベルクは演奏活動を大幅に減らしました。
すでに成功していたにもかかわらず、自分自身の演奏や音楽について改めて考えるため、長期間表舞台から距離を置いたのです。
その沈黙はおよそ10年にも及びました。
そして1966年頃、ワイセンベルクは再び本格的にコンサート活動へ戻ろうとしていました。
その重要な時期に出会った人物こそ、カラヤンだったのです。
ワイセンベルクの復帰を後押ししたカラヤン
ワイセンベルク本人は後年、カラヤンとの出会いが自分の復帰に非常に大きな意味を持ったことを語っています。
つまり二人の関係は、単なる 「有名指揮者と有名ピアニストの共演」 ではありませんでした。
長い休止期間を経て第二のキャリアを始めようとしていたワイセンベルクを、カラヤンが国際的な第一線へ再び引き上げる大きな力となったのです。
1960年代後半から、二人は本格的に共演するようになります。
チャイコフスキー、ラフマニノフ、フランク、ベートーヴェン、ブラームスなど、二人の共演レパートリーは次第に広がっていきました。
なぜカラヤンとワイセンベルクは相性が良かったのか
ワイセンベルクの演奏には非常に明確な特徴があります。
驚異的な技巧、曖昧さの少ないリズム、明確な音の輪郭、そして作品全体を大きく構築する力です。
一方のカラヤンも、オーケストラの音色、バランス、テンポ、フレージングを徹底的にコントロールする音楽家でした。
そのため、カラヤンとワイセンベルクはともに 「完璧主義的」「冷徹」「精密すぎる」 と批評されることもありました。
しかしワイセンベルク自身が感じていたカラヤン像は、そうした外部の評価とは少し違っていました。
1977年のインタビューでワイセンベルクは、カラヤンの大きな特徴として 驚異的な集中力 を挙げています。
リハーサルの段階からカラヤンの集中力は非常に高く、その集中が共演者にも伝わっていく。
そして演奏が始まると、言葉で細かく説明しなくても意思が通じるような、 「テレパシー」のような状態 になることがあったと語っています。
これは二人の関係を理解するうえで非常に興味深い証言でしょう。
カラヤンがワイセンベルクを一方的に支配したのではありません。
互いに強い音楽観を持っていたからこそ、細かな説明をしなくても同じ方向へ進むことができた。
そこに、二人ならではの相性があったのではないでしょうか。
カラヤンがワイセンベルクに託したベートーヴェン
二人の関係を象徴する録音のひとつが、 ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集 です。
カラヤンはベートーヴェンの交響曲については、生涯に何度も全集録音を行いました。
ところが、ピアノ協奏曲全5曲を一人のピアニストとまとめて録音した代表的な全集で独奏を任されたのがワイセンベルクでした。
もちろんカラヤンは、リヒテルやアシュケナージをはじめ、当時最高峰のピアニストたちとも共演しています。
その中でベートーヴェンの協奏曲全体をワイセンベルクと残したことは、カラヤンが彼をどれほど信頼していたかを示すものといえるでしょう。
《皇帝》を任せ続けたワイセンベルク
特に興味深いのが、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番《皇帝》 です。
カラヤン研究所が公開している演奏記録を見ると、1970年代にカラヤンが演奏会で《皇帝》を取り上げた際、ワイセンベルクとの共演が繰り返されています。
《皇帝》はカラヤンにとっても重要なレパートリーでした。
その作品を長期間にわたりワイセンベルクに託していたことからも、二人の音楽的な信頼関係がうかがえます。
ラフマニノフでも残した名演
カラヤンとワイセンベルクの共演盤として有名なのが、ラフマニノフの《ピアノ協奏曲第2番》 です。
二人は1970年代にベルリン・フィルとこの作品を録音しました。
巨大なスケールでオーケストラを鳴らすカラヤンと、輪郭のはっきりしたワイセンベルクのピアノ。
極端に感傷的になることなく、作品そのものを大きな構築物として聴かせるのが特徴です。
また、カラヤンは晩年までワイセンベルクのラフマニノフ演奏を高く評価していたと伝えられています。
つまりカラヤンが評価していたのは、自分と共演したワイセンベルクだけではありませんでした。
一人のピアニストとして、ワイセンベルクそのものを高く評価していたのでしょう。
1977年、ワイセンベルクはカラヤンと日本へ
日本のカラヤン・ファンにとって忘れてはならないのが、 1977年のベルリン・フィル日本公演 です。
この来日公演にはワイセンベルクもソリストとして参加しました。
カラヤンとベルリン・フィルは、この日本公演で大規模なベートーヴェン・ツィクルスを行っています。
ワイセンベルクも東京や大阪でカラヤン、ベルリン・フィルと共演し、ベートーヴェンやブラームスのピアノ協奏曲を演奏しました。
東京・普門館では、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番や第5番《皇帝》でも共演しています。
これは二人の関係を考えるうえで重要です。
ワイセンベルクは、レコード会社がスタジオ録音のためだけにカラヤンと組ませたピアニストではありませんでした。
ベルリン・フィルの大規模な海外ツアーに同行し、実際の演奏会でもカラヤンが協奏曲を任せるほど信頼されていたのです。
最後の共演は意外にもガーシュウィンだった
そして1979年。
カラヤンとワイセンベルクの共演関係は、意外な作品で最後を迎えました。
西ドイツ首相ヘルムート・シュミットのためにベルリンで開かれた演奏会で、ガーシュウィンの音楽を演奏することになったのです。
そこで選ばれたのが、 《ラプソディ・イン・ブルー》 でした。
クラシック音楽、それもベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーなどドイツ・オーストリア音楽のイメージが強いカラヤンにとって、ガーシュウィンは極めて珍しいレパートリーです。
カラヤンは《ラプソディ・イン・ブルー》を演奏することを了承しました。
ただし、ピアノにはワイセンベルクを望んだと伝えられています。
そして実現したこの演奏会が、 カラヤンとワイセンベルクの最後の共演 となりました。
1960年代、チャイコフスキーをきっかけとして始まった二人の関係。
その最後がベートーヴェンでもブラームスでもなく、ガーシュウィンだったというのは、なんとも興味深い結末です。
カラヤンにとってワイセンベルクとは何だったのか
カラヤンは世界最高峰のピアニストたちと共演することのできた指揮者でした。
そのため、単に「ピアノが上手い」というだけでは、長期間カラヤンのパートナーになることは難しかったでしょう。
演奏技術、音楽に対する集中力、オーケストラとの呼吸、作品に対する考え方。
そうしたものを高い次元で共有することのできたピアニストの一人が、ワイセンベルクだったのではないでしょうか。
一本の《ペトルーシュカ》の映像を見たカラヤンが、
「このピアニストに会いたい」
と思ったことから始まった二人の関係。
そして十数年後、カラヤンが珍しくガーシュウィンを指揮するときにも、そのピアノを任せた相手はワイセンベルクでした。
偶然の出会いから始まり、録音、コンサート、海外公演を通じて深まっていった音楽的な信頼。
アレクシス・ワイセンベルクは、まさに 「カラヤンが愛したピアニスト」 と呼ぶにふさわしい存在だったのでしょう。






