カラヤン&ベルリンフィル 冷戦下のモスクワ公演|ショスタコが震えた1969年「伝説の夜」
1969年5月、ヘルベルト・フォン・カラヤンはベルリン・フィルを率いてソ連へ向かいました。
現在なら世界的なオーケストラの海外ツアーは珍しいものではありません。
しかし当時は冷戦の真っただ中。
ベルリンには壁がそびえ、西ベルリンと東ベルリンは政治的にも完全に分断されていました。
そんな時代に、
西ベルリンを代表するベルリン・フィルが、最大の対立陣営であるソ連の首都モスクワへ乗り込んだ
のです。
しかも、この公演では音楽史に残る出来事が起きました。
カラヤンがショスタコーヴィチ交響曲第10番を演奏した会場に、
作曲者ドミートリイ・ショスタコーヴィチ本人が座っていた
のです。
演奏終了後、ショスタコーヴィチは舞台へ上がり、カラヤンと握手。
観客は二人の名前を叫び、会場は大変な熱狂に包まれました。
ベルリン・フィル自身が現在も「伝説的」と表現する1969年モスクワ公演。
今回はその知られざる舞台裏を詳しく見ていきます。
1969年、ベルリン・フィルがソ連へ
1969年5月、カラヤンとベルリン・フィルは東欧からソ連へ向かう演奏旅行を行いました。
カラヤン公式資料によれば、5月25日と26日にプラハで2公演を行った後、5月28日から6月2日にかけてソ連で5公演を行っています。
モスクワでは5月28日、29日、30日の3日間、モスクワ音楽院大ホールで演奏しました。
その後レニングラード、現在のサンクトペテルブルクへ向かっています。
モスクワでの3公演は、それぞれ全く異なるプログラムでした。
5月28日
- ベートーヴェン:《コリオラン》序曲
- ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」
- ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」
5月29日
- バッハ:ブランデンブルク協奏曲第1番
- ショスタコーヴィチ:交響曲第10番
5月30日
- モーツァルト:ディヴェルティメント第17番
- リヒャルト・シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」
これらの演奏はソ連国営レーベルMelodiyaによって録音され、後に正式にCD化されています。
ベルリン・フィルは冷戦下では「西側」の象徴だった
このツアーを理解するには、当時のベルリンについて考える必要があります。
ベルリンの壁が建設されたのは1961年。
ベルリン・フィルの本拠地は西ベルリンにありました。
つまりソ連側から見れば、
ベルリン・フィルは西側陣営を代表するオーケストラ
でもありました。
フランスの音楽専門誌ResMusicaが後年紹介した話では、当時のソ連側のプログラムでは「ベルリン」という表現だけでは東西どちらのベルリンの楽団なのか分かりにくかったため、
「これは西側のベルリン・フィルである」
という趣旨の説明まで行われたと伝えられています。
現在では少し奇妙に聞こえますが、それほどベルリンという都市そのものが政治的な意味を持っていた時代でした。
東ドイツはモスクワ公演に反対していた?
さらに興味深い記述があります。
オーストリア紙『Die Presse』は2009年、1969年モスクワ公演のライブ録音が正式CD化された際の記事で、
カラヤンが東ドイツ(DDR)政権の激しい反対を押し切って、このソ連公演を実現した
と紹介しています。
東ドイツにとって、西ベルリンのベルリン・フィルがモスクワで大歓迎されることは、政治的に複雑な意味を持っていたのでしょう。
ただし、この「DDRがどのような形で反対したのか」については詳細な一次資料が十分確認できないため、断定には注意が必要です。
それでも当時の公演が、
単なる音楽イベントではなく、東西冷戦の政治的緊張の中で行われたもの
だったことは間違いありません。
チケットがない学生たちが会場へ押し入った
そしてモスクワ公演が始まると、予想以上の人気となりました。
カラヤン公式サイトでは、当時ベルリン・フィルの支配人だったヴォルフガング・シュトレーゼマンの回想を紹介しています。
初日の5月28日。
カラヤンはベートーヴェン中心のプログラムを指揮していました。
《田園》交響曲が始まった直後、突然、客席のバルコニー付近の扉が大きな音を立てて開きます。
カラヤンは演奏を止めました。
何が起きたのか。
チケットを手に入れられなかった若い音楽学生たちが、どうしてもベルリン・フィルを聴きたくて会場へ入ってきた
のです。
学生たちは立ったままでもいいから演奏を聴こうとしていました。
警備側も彼らを完全に排除できず、最終的には、
「静かにすること」
を条件にその場に残ることが認められたといいます。
そしてカラヤンは《田園》を最初から演奏し直しました。
現在なら完全な安全上の問題ですが、当時カラヤンとベルリン・フィルがモスクワの若い音楽家からどれほど注目されていたかが分かるエピソードです。
会場は「包囲状態」だった
翌5月29日。
この日のチケット争奪戦はさらに激しかったようです。
理由は、
ショスタコーヴィチ交響曲第10番
でした。
カラヤン公式サイトが紹介するショスタコーヴィチ自身の回想によれば、モスクワ音楽院はまるで「包囲」されたような状態だったといいます。
チケットはとっくに完売。
会場入口には警備の騎馬隊まで配置されていました。
そして、その混乱を象徴するような人物がいました。
マリア・ユーディナが路上に座り込んだ
ソ連を代表する個性的なピアニスト、
マリア・ユーディナ
です。
ユーディナはチケットを持っていませんでした。
しかし、どうしてもカラヤンとベルリン・フィルの演奏を聴きたかった。
そこで彼女は会場付近の路上に座り込み、
「誰かがチケットをくれるまで私は立たない」
という趣旨の行動に出たと伝えられています。
ユーディナといえばスターリンに対しても恐れず発言したことで知られる伝説的なピアニスト。
そんな人物までチケットを求めて座り込むほど、この公演はモスクワの音楽界で大事件だったのです。
そして客席にはショスタコーヴィチ本人がいた
さらに、この公演を特別なものにした人物がいました。
交響曲第10番の作曲者、
ドミートリイ・ショスタコーヴィチ本人
です。
当時62歳。
ショスタコーヴィチは客席で、自分の作品をカラヤンとベルリン・フィルが演奏するのを聴きました。
ベルリン・フィル公式サイトは、当時の新聞『Die Welt』の記事をもとに、その様子を紹介しています。
ショスタコーヴィチは客席で、
激しく呼吸し、興奮のため身体を震わせながら演奏を聴いていた
といいます。
なぜカラヤンは「第10番」だけを特別扱いしたのか
カラヤンはロシア音楽を好んでいました。
チャイコフスキー、ムソルグスキー、プロコフィエフなど多くの作品を指揮しています。
ところがショスタコーヴィチについては非常に特殊でした。
カラヤンが演奏したショスタコーヴィチの交響曲は、
ほぼ第10番だけ
です。
ベルリン・フィルで1959年にこの作品を取り上げて以来、繰り返し演奏しました。
ベルリン・フィル公式サイトによれば、カラヤンは同楽団で第10番を17回も指揮しています。
一方、他のショスタコーヴィチ交響曲にはほとんど手を出しませんでした。
つまり第10番は、カラヤンにとって、
「ショスタコーヴィチを代表する特別な一曲」
だったのです。
ベルリン・フィルは「200%」の演奏をした
この夜の演奏を実際に聴いていた、後の世界的指揮者がいます。
マリス・ヤンソンス
です。
当時まだ若い音楽家だったヤンソンスは、このモスクワ公演を聴いていました。
後年、この時のベルリン・フィルについて、
「200%の力で演奏していた。信じられなかった」
という趣旨の回想を残しています。
通常のベルリン・フィルですら世界最高峰。
その楽団が、作曲者本人を前にして特別な集中力で演奏していたということなのでしょう。
この演奏は現在もMelodiyaから発売されたライブ録音で聴くことができます。
終演後、ショスタコーヴィチが立ち上がった
そして交響曲第10番が終わります。
会場は大喝采。
ベルリン・フィル公式サイトが紹介する当時の記録によれば、
ショスタコーヴィチは席から立ち上がり、小さな階段を上って舞台へ向かいました。
それを見たカラヤンもショスタコーヴィチのところへ急ぎます。
そして、
二人は舞台上で握手。
その瞬間、拍手はさらに大きくなりました。
ベルリン・フィルの記事では、その拍手を、
「まさに嵐のようだった」
という当時の表現で紹介しています。
観客は「ショスタコーヴィチ!カラヤン!」と叫んだ
さらに観客からは、
ショスタコーヴィチとカラヤン双方の名前を叫ぶ声
が起きました。
普段笑顔をほとんど見せないことで知られたショスタコーヴィチも、この時は笑みを浮かべたと伝えられています。
カラヤンの広報担当者だったペーター・チョバディは、この出来事について、
かつてソ連国内で批判や弾圧の対象となったショスタコーヴィチにとって、
「おそらく彼の生涯最大の勝利」
だったのではないかと回想しています。
ショスタコーヴィチはカラヤンの演奏をどう思ったのか
後年、このモスクワ公演について、
ショスタコーヴィチがカラヤンの第10番を非常に高く評価した
という証言が複数残っています。
『Die Presse』は、このライブ録音を紹介する記事で、ショスタコーヴィチが、
「自分の第10番をこれほど素晴らしく聴いたことはない」
という趣旨の評価をしたと伝えています。
別の音楽資料では、
「自分の交響曲がこれほど美しいとは知らなかった」
という形でも紹介されています。
言葉の細部については伝聞による違いがありますが、
ショスタコーヴィチがカラヤンとベルリン・フィルによる第10番に強く感銘を受けた
ことは間違いなさそうです。
実はソ連の新聞は全員が絶賛したわけではない
ここも面白いところです。
聴衆は熱狂しました。
しかし『Die Presse』によれば、
当時のソ連の新聞評は必ずしも一様な絶賛ではなく、評価は分かれていた
といいます。
カラヤンの演奏は極端に完成度が高く、美しいサウンドを特徴としていました。
ショスタコーヴィチ作品に対しては、
「ソ連・ロシアの演奏伝統とは違う」
と感じる評論家がいても不思議ではありません。
それでも公演を実際に体験したモスクワの音楽ファンの間では、長い間「伝説の公演」として語り継がれました。
スタジオ録音とは違う「燃えるカラヤン」
このモスクワ公演が現在でも興味深い理由の一つが、ライブ録音が残っていることです。
カラヤンは完璧に磨き上げられたスタジオ録音を数多く残しました。
そのため、
「美しいが、作り込みすぎている」
という評価をされることもあります。
ところが1969年モスクワのライブ録音では、その印象がかなり違います。
『Die Presse』もこの録音について、
スタジオ録音とは異なる、直接的で劇的なカラヤンを聴くことができる
と評価しています。
特にショスタコーヴィチ第10番は、
ベルリン・フィルの強烈なパワーと緊張感がそのまま記録されています。
カラヤンにとっても忘れられない公演だった
この夜を忘れられなかったのはショスタコーヴィチだけではありません。
カラヤンも後年、第10番について語る際にモスクワ公演を振り返っています。
ショスタコーヴィチ本人が非常に緊張しながら、同時に深く感動して演奏を聴いていたことが、カラヤンの記憶にも強く残っていました。
数千回の演奏会を指揮したカラヤンにとっても、
作曲者本人を前に、その代表作をソ連の聴衆へ演奏する
という経験は特別だったのでしょう。
若きヤンソンスにも大きな影響を与えた
そしてこのモスクワ公演は、次の世代にも影響を与えます。
公演を聴いたマリス・ヤンソンスは、後に世界を代表する指揮者となりました。
ベルリン・フィルとも長く共演し、2016年には同じショスタコーヴィチ交響曲第10番をベルリン・フィルで指揮しています。
つまり、
1969年に客席でカラヤンの第10番に衝撃を受けた若い音楽家が、半世紀近く後に同じオーケストラで同じ作品を指揮した
ことになります。
音楽史としても非常に美しいつながりです。
カラヤンは以前にもソ連を訪れていた
なお、1969年がカラヤン自身にとって初めてのソ連訪問だったわけではありません。
1962年にはウィーン・フィル、1964年にはミラノ・スカラ座とともにソ連を訪れています。
しかし1969年は事情が違いました。
今回は、
カラヤン自身のオーケストラともいえるベルリン・フィル
を率いての訪ソだったからです。
ベルリンの壁によって東西に分断された都市からやって来た西側のオーケストラ。
その演奏をソ連の聴衆が熱狂的に迎えたことには、音楽を超えた象徴的な意味もありました。
音楽が冷戦の壁を越えた夜
1969年当時、
西ベルリンとモスクワは政治的には全く異なる陣営に属していました。
しかしモスクワ音楽院の中では、
ドイツ人演奏家がロシアの作曲家の音楽を演奏し、
その作曲者本人が舞台へ上がってドイツ人指揮者と握手しました。
そして観客が、
「ショスタコーヴィチ!」
「カラヤン!」
と双方の名前を叫びました。
政治的には東と西に分断されていた時代でも、
音楽の世界では壁を越えることができた
ことを象徴する場面だったのかもしれません。
まとめ
1969年のカラヤンとベルリン・フィルによるモスクワ公演は、単なる海外ツアーではありませんでした。
- 冷戦下の西ベルリンを代表するベルリン・フィルがソ連へ
- 東ドイツ側が公演に反対していたとの記録
- チケットを持たない音楽学生が会場へ押し入る
- カラヤンが《田園》の演奏をいったん停止
- チケットは完全完売
- マリア・ユーディナまでチケットを求めて座り込む
- ショスタコーヴィチ本人が第10番を客席で聴く
- ベルリン・フィルは「200%」とも評された演奏を披露
- 終演後にショスタコーヴィチが舞台へ
- 観客がショスタコーヴィチとカラヤン双方の名前を叫ぶ
という出来事が起きました。
後にベルリン・フィル自身が「伝説」と呼ぶようになったのも当然でしょう。
中でも印象的なのは、ショスタコーヴィチが興奮して身体を震わせながら、自分の交響曲を聴いていたという記録です。
数多くの歴史的公演を残したカラヤンですが、
作曲者本人を前に演奏し、その作曲者が舞台へ上がって大喝采を浴びる
という経験はそう多くありません。
1969年5月29日のモスクワ。
そこには「帝王カラヤン」というイメージだけでは説明できない、
冷戦という時代と、音楽と、作曲者と演奏家が一つになった特別な夜
がありました。






