カラヤンとベルリンフィル研究ブログ

カラヤンの妻エリエッテ夫人、2人のご令嬢、実兄をご紹介!

2025年11月26日 当サイトにはプロモーションが含まれます

カラヤンの妻エリエッテ夫人や2人のご令嬢(イザベルさん・アラベルさん)、実兄ヴォルフガングさんをご紹介しております。

カラヤンは三度結婚しています。一人目がオペラ歌手のエルミ・ホルガーレーフさん(1938-1942)、二人目がユダヤ系のアニータ・ギューターマンさん(1942-1958)であり、三人目がフランス人のモデルだったエリエッテさん(1958-1989)です。2回の離婚を経験しているわけですが空白期間がないですね~。

カラヤンの最初の妻 ― エルミ・ホルガーレーフとは

基本情報

  • 名前:Elmy(Elmi / Elmy) Holgerloef(ホルガーレーフ)
  • 出身地:スウェーデン(ストックホルム出身とされる)
  • 生年:1906年前後と推測(正確な生年は不明瞭)
  • 職業:女優・舞台芸術に関わる仕事に従事していたとされる

1930年代のウィーンには北欧出身のモデルや女優、舞台人が多く集まっており、 エルミもその一人として、芸術・社交界の中で活動していたと考えられます。

カラヤンとエルミの出会い・結婚

出会いの背景

1930年代初頭、ヘルベルト・フォン・カラヤンはまだ20代後半の若手指揮者で、 ザルツブルクやウィーンでの活動を通じて徐々に頭角を現し始めていました。 地方歌劇場での仕事をしながら、社交界や演劇界とのつながりも広がっていき、 その中でエルミと知り合ったとされています。

結婚

  • 結婚年:1938年(カラヤン30歳頃)
  • 結婚当初、二人はウィーンの社交界で「若い芸術家カップル」として知られる存在だった。

この結婚は、世界的な名声を獲得する前のカラヤンを支えたもので、 キャリア初期の私生活を語る上でエルミの存在は欠かせません。

エルミ・ホルガーレーフの人物像

エルミ自身の詳しい伝記は多く残っていませんが、当時の証言や断片的な記録から、 次のような人物像が浮かび上がります。

  • 明るく社交的:北欧出身らしい落ち着いた雰囲気と知性を持ち、社交界とのつながりも広かったとされる。
  • 芸術への理解:舞台や芸能の世界にいたため、指揮者としてのカラヤンの仕事への理解が深かった。
  • イメージ面での支え:若手指揮者として社交の場に出る機会が増えていたカラヤンにとって、洗練された彼女の存在は大きなプラスだった。

二人の離婚

離婚時期

  • 離婚年:1942年頃
  • 結婚生活はおよそ4年程度と考えられている。

離婚理由と背景

公式に「これが理由」と特定された資料はありませんが、複数の伝記や回想から、 いくつかの要因が推測されています。

カラヤンの多忙と性格

1939〜1942年にかけて、カラヤンはアーヘンからベルリンへと活動拠点を移し、 ベルリン国立歌劇場などで一気に出世街道を歩きました。 完璧主義で野心家だった彼は、次第に私生活よりも仕事を優先するようになったとされています。

政治情勢の緊張

1938年のオーストリア併合以降、ウィーンの芸術界はナチス政権の影響下に置かれ、 空気は一変しました。北欧出身のエルミにとって、政治的・社会的な緊張の中で 安定した生活基盤を維持することは難しくなった可能性があります。

カラヤンの“スター化”による価値観のズレ

1941〜1942年頃、カラヤンはオペラ「トスカ」などを通じて、 一躍「時代の寵児」として注目を集めます。 その過程で、夫婦の生活リズムや価値観にズレが生じていったと考えられています。

離婚後のエルミ・ホルガーレーフ

離婚後のエルミについては、公的な記録や証言がほとんど残っていません。 そのため、彼女のその後の人生は大部分が謎に包まれています。

  • スウェーデンに帰国したという説が有力。
  • 芸術・舞台関係の仕事を続けていた可能性はあるが、名前が記録にほとんど現れない。
  • 再婚の有無や晩年の生活についても詳細は不明。

カラヤンの伝記においても、彼女との結婚生活や離婚後の詳しい記述は多くなく、 「政治的に難しい時代のプライベートな出来事」であったこと、 そして本人の意向もあって積極的に語られなかったのではないかと考えられます。

カラヤンにとってのエルミの意味

エルミ・ホルガーレーフは、「世界のカラヤン」になる以前の、 若き日のカラヤンを支えた重要な存在といえます。

  • キャリア初期を共にした伴侶:名声を得る前の試行錯誤の時期のパートナーだった。
  • 芸術家としての生き方への影響:社交性の高い舞台人として、カラヤンの社交界での立ち振る舞いや美意識にも影響を与えたと考えられる。
  • 後の妻アニア・マリアとの対比:1958年に再婚するアニア・マリア(アニタ)・グロースリッチは、国際的に著名な女性で、カラヤンの「世界的ブランド化」に大きく貢献した人物。その前段階として、エルミは内輪の世界で彼を支えた「若き日の妻」という位置づけになる。

まとめ

エルミ・ホルガーレーフは、若き日のヘルベルト・フォン・カラヤンの私生活と芸術活動を支えた、 しかし現在ではほとんど語られることのないミステリアスな存在です。

  • 北欧出身の女優として芸術への理解が深かった。
  • カラヤンがまだ無名に近い時代から支えた最初の妻であった。
  • カラヤンの出世と時代の激動の中で離婚し、その後は記録からほとんど姿を消す。

華やかな「ベルリン・フィルの帝王」としての姿だけでなく、 その前の、より人間的で等身大のカラヤンを知るうえで、 エルミ・ホルガーレーフの存在は静かに、しかし確かに重要な意味を持っていると言えるでしょう。

彼女は1983年に86歳で生涯を終えました。心不全とのことです。

カラヤンの2番目の妻 ― アニータ・ギューターマンとは

基本情報

  • 名前:Anita Gütermann(アニータ・ギューターマン)
  • 生年:1917年
  • 出身:ドイツ・バーデン地方
  • 家柄:工業財閥「ギューターマン家」の令嬢(世界的なミシン糸メーカー)
  • 職業:公式の職業記録はないが、名家の令嬢として社交界で育ち、文化的教養が高かったとされる

アニータはドイツの有力実業家一族に生まれた女性で、芸術界の人間ではなかったものの、 社交界への適応力や教養の高さで知られています。カラヤンと結婚した二番目の妻ですが、 後の「アニア・マリア」と比べると一般への知名度は大きくありません。

カラヤンとの出会いと結婚

出会いの背景

二人の正確な出会いの経緯は多く語られていませんが、共通するのは「ドイツ社交界」を通じた接点です。 カラヤンは1940年代前半、ベルリンでその才能を認められつつあり、社交界にもしばしば姿を見せていました。 その中でアニータと知り合ったと考えられます。

結婚

  • 結婚年:1942年
  • カラヤンの年齢:34歳
  • アニータの年齢:25歳

アニータとの結婚は、まさに戦時下のドイツという特殊な状況で行われました。 前妻エルミとの離婚から間を置かずに再婚した形となり、当時の芸術界・社交界でも話題になったとされます。

アニータ・ギューターマンの人物像

アニータは、舞台人であったエルミとはまったく異なるタイプの人物だったとされています。

  • 実業家一族の令嬢:ギューターマン家はミシン糸の大財閥で、裕福で安定した家柄。
  • 落ち着いた知性:芸術よりも実務的・現実的な性格で、非常にしっかりした女性だったと言われる。
  • 社交界での安定感:華美さよりも控えめな品位で、社交界では信頼感のある人物像。
  • 芸術への理解:専門家ではないが、カラヤンの音楽活動には一定の理解と支援を示していた。

当時のカラヤンは、芸術家としての立場を固めながらも、戦時体制下で複雑な仕事環境に置かれていました。 アニータはその「生活基盤の安定」という面で大きな支えになったと考えられます。

二人の離婚

離婚時期

  • 離婚年:1958年
  • 結婚生活は約16年間に及んだ。

離婚の背景

アニータとの結婚生活は、カラヤンの人生の中で最も激動の時期だったと言えます。 戦中から戦後、そしてベルリン・フィルのトップへと駆け上がる道のりは、極度の緊張と変化に満ちていました。

カラヤンの世界的名声の上昇

1950年代後半、カラヤンはすでに国際的なスター指揮者となっており、 その生活は多忙さを極めていました。世界中を飛び回る生活は、家庭生活との両立を難しくしました。

性格・価値観の違い

アニータは非常に堅実で保守的な性格だったとされ、華やかな芸術・社交界を舞台に活躍するカラヤンとは、 価値観が次第に合わなくなったと言われます。

新たな運命の出会い ― 後の妻アニア・マリアの存在

1950年代後半、カラヤンは後に三番目の妻となるアンナ・マリア(アニア)・グロースリッチと出会います。 この出会いが、アニータとの結婚が終わりに向かう決定的な転機となりました。

離婚後のアニータ・ギューターマン

離婚後のアニータは公的な場にほとんど姿を見せず、詳細な記録は多く残っていません。 ただし、カラヤンのような芸術家と異なり、元来実業家一族の出身であったことから、生活基盤は安定していたと見られています。

  • 再婚したかどうかははっきりしていない。
  • メディアへの露出はほとんど無く、静かに暮らしていたとされる。
  • 芸術界とのつながりも離婚後は途絶えている。

その後の人生についての詳細は少ないものの、 カラヤンの激動期を支えた「静かな妻」として、伝記の中では控えめながら存在感を放っています。

カラヤンにとってのアニータの意味

アニータ・ギューターマンとの16年間の結婚生活は、カラヤンの人生において「基盤を固める時期」にあたります。 彼が世界的指揮者へと上り詰める過程を支えた重要な存在でした。

  • 生活面での大きな支え:実務的で安定感のある性格は、戦中〜戦後の不安定な時代の中で役立った。
  • 芸術家と現実社会の橋渡し:舞台人ではなかったが、カラヤンの仕事を現実的な視点で支えた。
  • 後の「アニア・マリア時代」への前段階:アニア・マリアとの華やかな生活とは対照的で、より堅実で静かな伴侶という位置づけとなる。

まとめ

アニータ・ギューターマンは、多忙と激動の時代を生きるカラヤンを支えた“安定の妻”でした。 前妻エルミの芸術家的な気質とも、後妻アニア・マリアの華やかな国際派の雰囲気とも異なる、独自の位置にあります。

  • ドイツの実業家一族の出身で、生活面で大きな安定を提供した。
  • カラヤンの戦中〜戦後の困難な時期の支えとなった。
  • 16年に及ぶ結婚生活は、カラヤンのキャリアにおける“基礎を築く時代”に相当する。

カラヤンの歴史の中で目立つ存在ではないものの、彼が国際的巨匠へと飛躍していく土台を支えた人物として、 見逃すことのできない重要なパートナーでした。

そのアニータさんはなんと2015年まで生きていたそうです(1917-2015)。97歳も生きられました。すごいですね。カラヤンもビックリ!

カラヤンの3番目の妻 ― エリエッテ・フォン・カラヤンとは

基本情報

  • 名前:Eliette von Karajan(旧姓:Eliette Mouret / エリエッテ・ムーレ)
  • 生年:1932年
  • 出身:フランス南部(モンペリエ近郊とされる)
  • 職業:元ファッションモデル、のちに画家・写真家としても活動
  • 家族:ヘルベルト・フォン・カラヤンの3番目の妻であり、二人の娘 イザベル(Isabel)アラベル(Arabel) の母

エリエッテは若くしてパリでモデルとして活躍し、その洗練された美しさから 「ヨーロッパで最も美しいモデルの一人」とも評されました。 1950年代後半にカラヤンと出会い、以後、彼の人生と芸術にとって決定的なパートナーとなります。

カラヤンとの出会いと結婚

運命の出会い

二人は1950年代後半、パリでの社交の場を通じて紹介されたとされています。 当時、カラヤンはすでに国際的なスター指揮者として活躍しており、 一方のエリエッテはファッション誌やコレクションで注目を集めるトップモデルでした。

結婚

  • 結婚年:1958年
  • カラヤンの年齢:50歳
  • エリエッテの年齢:26歳

二人の結婚は、当時のヨーロッパの芸術・社交界で大きな話題となりました。 カラヤンは2番目の妻アニータ・ギューターマンとの結婚生活を終え、 新たな人生のパートナーとしてエリエッテを迎えることになります。

エリエッテの人物像

エリエッテは、単なる「美しい指揮者の妻」という枠を超え、 カラヤンの芸術世界とイメージ戦略に深く関わった存在でした。

  • 洗練された美意識: モデルとして培ったセンスにより、服装・写真・舞台上の見せ方などに強いこだわりを持っていた。
  • 穏やかで包容力のある性格: 完璧主義で気難しい一面を持つカラヤンにとって、心からくつろげる相手だったと言われる。
  • 芸術への理解: 絵画や写真にも取り組み、自らも創る側に回ることで、芸術家としてのカラヤンと深く共鳴した。
  • 家庭の要: 多忙な生活を送る夫を支えながら、イザベルとアラベルの母として家庭を守った。

カラヤンの世界的成功を支えたパートナー

エリエッテとの結婚以降、カラヤンはベルリン・フィルとの活動を軸に、 録音・映像・音楽祭など多方面へと勢力的に活動し、「カラヤン帝国」とも呼べる時代を築きました。 その裏には、エリエッテの存在があります。

イメージとスタイルへの影響

黒いタートルネック、シンプルでモダンなステージ、洗練された宣材写真── こうした「カラヤン・スタイル」は、エリエッテの美意識と無関係ではないとされています。 彼女は写真家やデザイナーとも交流し、カラヤンの“見せ方”を意識した戦略を支えていました。

ザルツブルクでの生活

二人はザルツブルク郊外、アニフ城近くの邸宅を拠点とし、 そこは家族の住まいであると同時に、世界中の音楽家たちが集う場所ともなりました。 自然に囲まれた落ち着いた環境で、カラヤンはリハーサルやスコアの勉強を行い、 エリエッテは家族と来客を迎え入れていました。

イザベルとアラベル ― 二人の娘たち

  • イザベル・フォン・カラヤン
    1960年生まれ。舞台芸術やプロジェクトの企画・演出に携わり、 演劇や音楽を組み合わせた公演などで活動している。
  • アラベル・フォン・カラヤン
    1964年生まれ。カラヤン財団や関連プロジェクトの運営・マネジメント面に関わり、 父の遺産管理や文化活動のサポートを続けている。

エリエッテは、この二人の娘を芸術と教養に富んだ環境で育てました。 現在もイザベルとアラベルは、それぞれの形で「カラヤンの名前と音楽」を次の世代へ伝えています。

晩年のカラヤンを支え続けた存在

1970年代以降、カラヤンは心臓の問題など健康面の不安を抱えながら指揮活動を続けました。 エリエッテは常に彼の体調を気遣い、仕事のペースやスケジュールにも目を配っていたと伝えられています。

1989年にカラヤンが亡くなるその日まで、エリエッテはそばに寄り添い続け、 まさに「生涯の伴侶」として彼を見送りました。

カラヤン死後のエリエッテ

カラヤンの死後も、エリエッテはその遺産を守り、名誉を保つために尽力しています。

  • カラヤン財団(Herbert von Karajan Stiftung)や関連組織の活動に関わる。
  • 録音・映像作品の管理や監修に携わり、リリースや再発の方針にも意見を持つ存在。
  • 自身が撮影した写真や絵画作品を通じて、芸術家としても活動。
  • 音楽教育や若手演奏家支援といった慈善的な活動にも関心を寄せる。

彼女は、単に「巨匠の未亡人」という立場にとどまらず、 一人の芸術的パーソナリティとして、静かに、しかし確固たる役割を果たしています。

カラヤンにとってのエリエッテの意味

多くの証言や伝記を通じて見えてくるのは、 エリエッテがカラヤンの人生において最も重要な伴侶であったという事実です。

  • 精神的な支え:孤独を好みながらも常に緊張の中にいたカラヤンにとって、 心から信頼できる存在だった。
  • 美学の共有者:視覚的な美、舞台の見せ方、写真の構図など、 音楽以外の部分でカラヤンと価値観を共有した。
  • 家庭の中心:イザベルとアラベルを育て、家族としての温かさを守った。
  • 遺産の継承者:カラヤンの名と作品を、娘たちと共に現在まで守り続けている。

まとめ

エリエッテ・フォン・カラヤンは、 「巨匠カラヤン」のイメージと実像を形作った決定的なパートナーでした。 その美しさと知性、そして穏やかな強さは、カラヤンの人生と芸術の歴史に深く刻まれています。

  • 若くして国際的トップモデルとして活躍したフランス出身の女性。
  • 1958年の結婚から1989年のカラヤンの死まで、常にそばで支え続けた。
  • 娘イザベルとアラベルを育て、現在も「カラヤン家」の中心的存在であり続けている。
  • 夫の遺した音楽的・文化的遺産を守り、未来へとつなぐ役割を果たしている。

カラヤンの物語を語るとき、エリエッテを抜きにすることはできません。 彼女の存在を知ることで、私たちは「指揮者カラヤン」だけでなく、 一人の人間としてのカラヤン像に、より近づくことができるでしょう。

彼女は「未亡人」という言葉を嫌っているそうです。いつまでもカラヤンの妻であり続けたいという思いからかもしれません。

現在はオーストリア・アニフ村の自宅で一人暮らしをしながらフランスのサントロペを行き来しているご生活のようです。

エリエッテ・フォン・カラヤンさん公式サイト[英語/ドイツ語]

カラヤンの娘たち ― イザベルとアラベル

ヘルベルト・フォン・カラヤンとエリエッテ・フォン・カラヤンには、 二人の娘がいます。いずれも芸術と文化に深く関わりながら、 父の遺産を現代へと伝える役割を果たしています。

イザベル・フォン・カラヤン

基本情報

  • 生年:1960年(ザルツブルク)
  • 職業:舞台芸術家、演出家、クリエイティブプロデューサー
  • 活動拠点:オーストリア、ドイツ、スイスなどヨーロッパ各地

芸術家としての道

イザベルは幼少期から音楽・演劇・文学に囲まれて育ち、 カラヤンの音楽だけでなく、舞台全体の美学を吸収してきました。 若い頃はバレエや演劇を学び、やがて舞台演出やプロデュース活動に進みます。

活動の特徴

  • 音楽×演劇の融合: クラシック音楽に俳優や朗読を取り入れる独自のスタイル。
  • 現代的な音楽プロジェクト: テクノロジーや映像表現を用いた作品も手がける。
  • 語りと音楽: 文学作品の朗読とクラシック曲のコラボレーション企画を多数開催。

カラヤンとの関係

イザベルは父カラヤンを深く尊敬しており、 「父の音楽の表現の奥にある精神や哲学を現代に伝えたい」 と語っています。 伝統を守りつつ、新しい形で父の音楽を語り継ぐのが彼女の役割といえるでしょう。

アラベル・フォン・カラヤン

基本情報

  • 生年:1964年(ザルツブルク)
  • 職業:文化プロデューサー、マネジメント、財団運営
  • 活動拠点:主にオーストリア・スイス

文化運営のスペシャリスト

アラベルは姉のイザベルと異なり、表現者というよりも 「裏方のマネジメント」「文化財の管理」分野に強みを持つ人物です。

  • カラヤン財団の運営・管理: 父の遺産管理や文化プロジェクトの実務を担当。
  • 音楽教育支援: 若手アーティスト支援や教育プログラムに関わる。
  • アーカイブ整理: カラヤンの録音・映像・写真など、膨大な資料の整理・保存に深く携わる。

カラヤン家の“調整役”

性格は「控えめで落ち着いたタイプ」と言われ、 家族・財団・レーベル・音楽祭など多くの関係者と折衝する能力を持ち、 “カラヤン家の実務の中心”として重要な存在です。

姉妹の関係と役割分担

イザベルとアラベルは性格も活動領域も異なっていますが、 カラヤンの遺産を次世代に伝えるという目標のために明確な役割分担ができています。

  • イザベル:芸術・舞台表現の面で父の精神を継承
  • アラベル:財団管理・アーカイブ・文化運営の面で父を継承

この二つの役割が合わさることで、 カラヤンの音楽と理念は「芸術」と「運営」の両輪で守られています。

母エリエッテとのつながり

エリエッテは娘たちに自由な芸術観と多文化的な視野を与え、 姉妹は幼い頃から芸術家や文化人に囲まれた環境で育ちました。 現在も三人は非常に仲が良く、家庭としても強い信頼関係で結ばれています。

カラヤンの遺産を継ぐ次世代

イザベルとアラベルは、単に「巨匠の娘」という存在ではなく、 それぞれが独立した道でカラヤンの文化遺産を継承しています。

  • イザベルは舞台芸術家として「表現の継承」
  • アラベルは財団運営者として「遺産管理の継承」

こうして姉妹は、音楽界・文化界の両面から、 カラヤンの名と作品が永続的に受け継がれるよう努めています。

まとめ

カラヤンの娘であるイザベルとアラベルは、 それぞれの強みを活かしながら、 「芸術面」と「運営面」から父の遺産継承に貢献する存在です。

  • イザベル:舞台表現・創作・演出を通じて父の美学を現代へ届ける。
  • アラベル:財団運営と文化保存によって、父の記録と研究を未来へつなぐ。
  • 母エリエッテとともに、カラヤン家は今日も音楽界に強い影響を持ち続ける。

巨匠カラヤンの人生の最後の章と、音楽遺産の未来を支えるのは、 この二人の姉妹と言ってよいでしょう。

ちなみにカラヤンは1967年に購入した自分のヨットに家族の名前をピックアップして名付けました。

(H)erbert、(El)iette、(Is)abel、(Ara)belの一部を取って「HELISARA」(ヘリサラ)という名前のヨットだそうです。

カラヤンの兄、ヴォルフガングさん

カラヤンには2歳上の兄、ヴォルフガングさん(1906年生まれ)がいました。ウィーン工科大学で電気工学を専攻したとのこと。若い頃はオートバイレースにも参加していました。

写真を見たところカラヤンほど男前ではないようですね。彼はオルガンの専門家で、演奏と製作の両面を行いました。奥様もオルガニストで一緒に世界ツアーも行っていたようです。

調べたところ、カラヤンとお兄様の奥様とはソリが合わなかったようです。カラヤンが奥様に嫌悪感を抱いていたようです。兄弟で共演の話もあったようですが白紙になったとの記録があります。それ以降、関係は希薄になってしまったようです。弟は世紀の大指揮者であり、フランス人のモデルと結婚、別荘やジェット機、ポルシェ、ヨットや豪邸などあまりにも一般人とかけ離れた生活でしたから嫉妬心もあったことでしょう。

とにかく兄弟のツーショットは幼い頃の写真以外私は見たことがありません。

彼は1987年11月、ザルツブルクにおいて81歳で生涯を終えました。

奇しくもヘルベルトと同じ寿命だったわけです。今はザルツブルク市営墓地に眠っているそうです。

ついにカラヤンのお孫さんも登場!2009年のカラヤンファミリーもご覧ください。

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