カラヤンが絶賛したティンパニ奏者 オスヴァルト・フォーグラー
カラヤン時代のベルリン・フィルを支えた首席ティンパニ奏者オスヴァルト・フォーグラー。カール・ベームに認められて入団し、カラヤンから高く評価された経歴、ティンパニ観、テーリヒェンとの「対決」まで紹介します。
オスヴァルト・フォーグラー|カラヤン時代を支えたベルリン・フィル首席ティンパニ奏者
カラヤン時代のベルリン・フィルを語るとき、弦楽器の艶やかな響きや、ホルンを中心とする金管セクションに注目が集まりがちです。
しかし、その巨大なサウンドを下から支えていた重要な奏者の一人が、首席ティンパニ奏者オスヴァルト・フォーグラー(Oswald Vogler)でした。
フォーグラーは1970年にベルリン・フィルへ入団し、1997年まで約27年間在籍しました。
カラヤン時代の中心期から晩年、さらにアバド時代まで、長くベルリン・フィルを支えた奏者です。
そして彼には、カラヤンとの関係を示す興味深いエピソードが残されています。
そのひとつが、大学教授就任時にカラヤンが自ら推薦状を書いたという話です。
カール・ベームに認められてベルリン・フィルへ
フォーグラーは1930年、ドイツのハムに生まれました。
15歳からドルトムントの音楽院で学び、1949年にはハーゲン市立管弦楽団、1952年にはボーフム交響楽団の首席ティンパニ奏者となります。
そして1970年、ベルリン・フィルへの転機が訪れました。
フォーグラーは、ブルックナー交響曲第8番の演奏に試験的に参加します。
このとき指揮していたのはカラヤンではなく、カール・ベームでした。
ベルリン・フィルの追悼資料によれば、ベームはフォーグラーの演奏について、音楽的な確実さや正確さを評価したとされています。
この演奏をきっかけに、フォーグラーはベルリン・フィルへ正式に加わることになりました。
カラヤンから非常に高く評価されていた
入団後、フォーグラーはカラヤンからも高い評価を受けるようになります。
そのことをよく示しているのが、1981年のベルリン芸術大学教授就任をめぐるエピソードです。
フォーグラーが教授職に就く際、カラヤンは大学側に推薦状を書きました。
その中でカラヤンは、フォーグラーをその分野における第一級の奏者として評価し、同程度の奏者は世界的に見てもごく少数しかいないという趣旨の言葉を記したとされています。
世界各地のオーケストラや奏者と共演してきたカラヤンが、ベルリン・フィルの一奏者についてここまで強い推薦を行ったことは興味深いところです。
フォーグラーは1981年、ベルリン芸術大学の教授に就任しました。
「我々は叩くのではない。演奏するのだ」
フォーグラーのティンパニに対する考え方を象徴する言葉として、
「我々はただ叩くのではない。演奏するのだ」
という趣旨の発言が知られています。
ティンパニというと、強烈なフォルテッシモや迫力ある打撃音ばかりが注目されがちです。
しかしフォーグラーが評価されたのは、単純な音量ではありませんでした。
ベルリン・フィルの追悼文でも、繊細でニュアンス豊かな楽器の扱いが紹介されています。
カラヤン時代のベルリン・フィルの録音を聴くと、ティンパニが単なる効果音ではなく、低弦や金管と一体になり、和声やリズムを形作っていることが分かります。
こうした「音楽としてのティンパニ」を重視する姿勢も、カラヤンがフォーグラーを評価した理由のひとつだったのかもしれません。
ヴェルナー・テーリヒェンとの「ティンパニ対決」
フォーグラーには、少しユーモラスなエピソードも残されています。
当時ベルリン・フィルには、もう一人の著名なティンパニ奏者ヴェルナー・テーリヒェンが在籍していました。
テーリヒェンはティンパニ奏者であると同時に、作曲家としても活動していた人物です。
テーリヒェンの回想によると、あるときカラヤンが、
フォーグラーの方がより大きな音を出せる
という趣旨の発言をしたといいます。
この言葉に刺激されたテーリヒェンは、二人のティンパニ奏者を独奏者とする作品を書きました。
それが《Batrachomyomachia(バトラコミオマキア)》Op.55です。
二人の独奏ティンパニ、バリトン、室内合唱、オーケストラのための作品で、二人の奏者が競い合うような構成になっています。
後年の紹介では、カラヤンの発言がきっかけとなり、ティンパニの「決闘」のような作品が生まれたと説明されています。
その「対決」をカラヤン本人が指揮
さらに面白いのは、この作品をカラヤン自身が指揮したことです。
1977年9月25日、ベルリン・フィルハーモニーで《Batrachomyomachia》が演奏されました。
当日の記録では、
となっています。
つまり、
という、何とも面白い流れになったわけです。
しかも同日のプログラムには、ストラヴィンスキー《春の祭典》も含まれていました。
ティンパニ奏者にとって、かなり負担の大きい演奏会だったことは想像に難くありません。
現在は1977年の演奏を聴くことができる
《Batrachomyomachia》は、長い間一般のクラシックファンにはあまり知られていない作品でした。
しかしベルリン・フィルが発表したカラヤンの1970年代ベルリン・ライヴ集には、1977年9月25日の演奏が収録されています。
そこでは、
による演奏を実際に聴くことができます。
カラヤンの何気ない一言が発端だったとされる二人の「ティンパニ対決」を、現在音源として確認できるのは非常に興味深いところです。
カラヤン・アカデミーでも後進を指導
フォーグラーは、演奏家としてだけでなく教育者としても活動しました。
ベルリン・フィルのオーケストラ・アカデミー、現在のカラヤン・アカデミーでも長期間にわたって指導を担当しています。
歴代アカデミー生の記録を見ると、1970年代から1990年代初頭まで、多くの打楽器奏者の指導者としてフォーグラーの名前が確認できます。
1978年には、日本人奏者の宮崎泰次郎もフォーグラーの指導を受けています。
つまりフォーグラーは、カラヤン時代のベルリン・フィルで実際に音を作っただけでなく、その奏法や考え方を次世代へ伝える役割も担っていたのです。
27年間ベルリン・フィルを支えたティンパニ奏者
フォーグラーは1997年までベルリン・フィルに在籍しました。
1970年の入団から数えると約27年間です。
その間には、カラヤン時代の1970年代、晩年の1980年代、そしてアバド時代への移行というベルリン・フィルの大きな変化がありました。
一人のティンパニ奏者として、その長い時代を支え続けたことになります。
フォーグラーは2020年12月26日、90歳で亡くなりました。
まとめ|カラヤンが高く評価したベルリン・フィルのティンパニ奏者
オスヴァルト・フォーグラーは、カラヤン時代のベルリン・フィルの低音とリズムを支えた重要な奏者でした。
カール・ベームに評価されてベルリン・フィルへ入り、カラヤンからも高い評価を受け、大学教授就任時には推薦状まで書いてもらっています。
また、
「ただ叩くのではなく、音楽を演奏する」
という姿勢は、ティンパニを単なる打撃音ではなく、オーケストラの一部として扱うフォーグラーの音楽観をよく表しています。
そして、カラヤンの発言をきっかけにテーリヒェンとの「ティンパニ対決」のような作品が生まれ、その作品をカラヤン自身が指揮したという逸話も、当時のベルリン・フィルの個性的な奏者たちを感じさせます。
指揮者やソリストほど一般に名前が知られる存在ではありませんが、カラヤン時代のベルリン・フィルを聴くうえで覚えておきたい奏者の一人です。





