ベルリンの壁崩壊から3日後 バレンボイムとベルリン・フィル「自由のコンサート」
1989年11月9日。
東西冷戦の象徴だったベルリンの壁が、事実上開放されました。
そして、そのわずか3日後。
11月12日にベルリン・フィルハーモニーで、歴史的な演奏会が開かれます。
指揮とピアノは、
ダニエル・バレンボイム。
演奏したのはベルリン・フィル。
しかし、この日の演奏会は通常のコンサートではありませんでした。
東ドイツ市民を無料で招待するために、急遽企画された特別演奏会
だったのです。
入場券の代わりになったのは、
DDR=東ドイツの身分証明書。
ベルリンの壁によって長い間、西側のベルリン・フィルハーモニーへ自由に来ることができなかった人々が、一斉にホールへ押し寄せました。
今回は、壁崩壊直後のベルリンで行われた、バレンボイムとベルリン・フィルによる「自由のコンサート」を詳しく見ていきます。
壁が開いたのは1989年11月9日
1989年11月9日夜。
東ドイツ政府の渡航規制をめぐる混乱した発表をきっかけに、東ベルリン市民が国境検問所へ殺到します。
検問所は次々と開放され、東西ベルリンの人々が自由に行き来し始めました。
28年間にわたって街を分断してきたベルリンの壁が、事実上崩壊した瞬間です。
世界中がその映像を見守る中、
ベルリン・フィルの団員たちも大きな衝撃と喜びを感じていました。
ベルリン・フィルが「東ドイツ市民を招こう」と決めた
ベルリン・フィル公式サイトによれば、壁開放直後、楽団内部からある提案が出ました。
「東ドイツの人々をフィルハーモニーへ無料で招待しよう」
というものです。
そこで急遽、特別演奏会を開催することになりました。
問題は指揮者です。
ベルリン・フィルは当時、ダニエル・バレンボイムとベートーヴェン作品の録音を進めていました。
楽団から依頼を受けたバレンボイムは、
すぐに出演を承諾。
こうして壁開放からわずか3日後という異例の早さで、歴史的な演奏会が実現しました。
入場券は「東ドイツの身分証明書」
この日の演奏会には通常のチケットは必要ありませんでした。
対象となったのは、
東ドイツ=DDRの市民。
東ドイツの身分証明書を提示すれば無料で入場することができました。
この仕組みそのものが非常に象徴的です。
数日前まで、東ドイツの市民が西ベルリンへ来ること自体が極めて難しかったのです。
それが突然、
東ドイツの身分証を見せることで、世界最高峰のベルリン・フィルを無料で聴ける
ようになったのです。
朝5時から人々が並び始めた
当然ながら、多くの人がこの特別演奏会を聴こうとしました。
後に制作されたドキュメンタリー資料によれば、
早朝5時頃から人々が並び始めた
といいます。
中には、少しでも早く入場するため、
駐車場に停めたトラバントの中で一晩過ごした人
までいたと伝えられています。
東ドイツを代表する小型車トラバントで西ベルリンまで来て、世界最高峰のオーケストラを聴く。
壁崩壊直後の混乱と高揚感を象徴する光景でしょう。
会場は満員どころではなかった
ドイツ政府公式資料は、この日のベルリン・フィルハーモニーについて、
「はち切れそうなほど満員だった」
という趣旨で紹介しています。
ベルリン・フィルのヴァイオリン奏者マドレーヌ・カルッツォも後年、
「本来入れてはいけないほど多くの人を入れていたと思う」
という趣旨で回想しています。
単なる満席ではなく、
ホール全体が異常なほどの熱気に包まれていた
のです。
カラヤンが亡くなってわずか4か月後だった
この演奏会には、ベルリン・フィルにとってもう一つ重要な背景があります。
ヘルベルト・フォン・カラヤンは、
1989年7月16日に死去。
壁が開いたのはその約4か月後でした。
つまりベルリン・フィルは、
30年以上楽団を率いたカラヤンを失った直後
だったのです。
さらに1989年秋には、カラヤンの後継者選びが進められていました。
その候補の一人が、
ダニエル・バレンボイム
でした。
しかし最終的に選ばれたのはクラウディオ・アバド。
バレンボイムは首席指揮者には選ばれませんでした。
その直後にベルリンの壁が崩壊し、
歴史的な特別演奏会の指揮者として呼ばれたのがバレンボイムだったのです。
なぜバレンボイムだったのか
理由は非常に現実的でした。
当時バレンボイムはベルリン・フィルとベートーヴェン作品を録音しており、
ちょうどベルリンに滞在していた
のです。
壁が開いた翌日の11月10日、興奮状態のベルリン・フィル団員たちとバレンボイムが話し合い、
急遽コンサートを行うことになりました。
準備期間はほとんどありません。
そのため、すでにリハーサルしていた作品を中心にプログラムが組まれました。
演奏されたのはベートーヴェン
この日の主なプログラムは、
- ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番
- ベートーヴェン:交響曲第7番
でした。
ピアノ協奏曲第1番では、
バレンボイム自身がピアノを弾きながら指揮。
いわゆる「弾き振り」です。
そして後半にはベートーヴェン交響曲第7番が演奏されました。
第7番は「自由」を意識して選んだ曲ではなかった
現在から見ると、
「壁崩壊を祝うためにベートーヴェン第7番を選んだ」
と思いたくなります。
しかし実際には、そこまで計画された選曲ではありませんでした。
バレンボイム本人によれば、
ちょうどベルリン・フィルと録音のために練習していた曲だったから
選ばれたのです。
壁が開いたのは突然でした。
数日後に演奏会を開催する以上、新しい作品を一から準備する時間はありません。
そのため、すぐに最高水準で演奏できるベートーヴェン第7番が選ばれました。
ところが結果として、
この第7番は壁崩壊と強く結び付けられることになります。
アンコールはモーツァルトだった
歴史的な演奏会の最後に演奏されたのは、
モーツァルト《コジ・ファン・トゥッテ》序曲
でした。
ベルリン・フィルのデジタル・コンサートホールによれば、
当時バレンボイムとベルリン・フィルは《コジ・ファン・トゥッテ》の録音にも取り組んでいたため、
アンコールとしてこの序曲が選ばれました。
こちらも政治的な意味を込めて事前に選ばれたものではありません。
しかし演奏会全体が歴史的事件となったことで、このアンコールも特別な意味を持つことになりました。
「電気が走っているような雰囲気だった」
楽団員の証言によれば、
会場の雰囲気は通常の演奏会とは全く違っていました。
マドレーヌ・カルッツォは後年、
「electric(電気が走るような)」
雰囲気だったと回想しています。
観客の中には泣いている人もいました。
そして、
演奏しているベルリン・フィルの団員たちまで感情を抑えるのが難しかった
といいます。
単なる祝賀ムードではありません。
数日前まで自由に西へ来られなかった人々が、
突然フィルハーモニーの客席に座っている。
演奏者側にも、その意味が強烈に伝わっていたのでしょう。
楽団代表がテレビカメラの前で泣いた
この演奏会はテレビでも生中継されました。
当時の西ベルリンの放送局SFBが中継を担当しています。
その途中、
ベルリン・フィルの楽団代表だったアレクサンダー・ヴェドウがインタビューを受けました。
ところが話している途中、
感情を抑えられなくなり、テレビカメラの前で涙を流した
と記録されています。
長く分断されたベルリンで活動してきた楽団員にとって、
東側の市民が自由にフィルハーモニーへ入ってきた光景は、それほど大きな出来事だったのです。
東ベルリンの人々にとってフィルハーモニーは「近くて遠い場所」だった
ベルリン・フィルハーモニーの立地も、この出来事を象徴的なものにしています。
現在のフィルハーモニーが完成したのは1963年。
ベルリンの壁は1961年に建設されています。
つまりフィルハーモニーは、
壁によって分断されたベルリンの西側に建てられたホール
でした。
しかも壁からそれほど遠くありません。
地理的にはすぐ近くに見える。
しかし東ベルリン市民にとっては、
簡単には行くことのできない「近くて遠いコンサートホール」
だったのです。
それが1989年11月12日、
突然自由に入れる場所になりました。
そして終演後、ある女性がバレンボイムに花を渡した
この演奏会には、非常に印象的なエピソードが残されています。
バレンボイム自身が後に語った話です。
終演後、
一人の女性がバレンボイムのところへ近づいてきました。
女性は興奮のため、
手を震わせながら花を渡した
といいます。
その女性の隣には、一人の若い男性が立っていました。
彼女の息子でした。
壁によって引き裂かれた母と息子
女性はバレンボイムに、自分たちの事情を話しました。
息子がまだ赤ん坊だった頃、
夫が子供を連れて西側へ行ってしまったのです。
東西ベルリンが分断されたことで、
母親は長い年月、息子と会うことができませんでした。
しかし1989年11月9日。
壁が開きました。
そして母と息子は、
ようやく再会することができた。
その直後に二人で訪れたのが、
バレンボイムとベルリン・フィルの特別演奏会だったのです。
「このコンサート以上に、どうやって再会を祝えたでしょう」
女性はバレンボイムに、
「このコンサート以上に、私たちはどうやって再会を祝うことができたでしょう」
という趣旨の言葉を伝えたとされています。
バレンボイムにとっても、忘れられない出来事になりました。
ベルリンの壁崩壊は、
国家や政治だけの問題ではありませんでした。
その背後には、
何十年も会えなかった家族が再び会えるようになった
という無数の個人的な物語がありました。
この母子の話は、その象徴といえるでしょう。
バレンボイムにとっても特別なベートーヴェン第7番になった
バレンボイムは後年、この日の演奏について何度も振り返っています。
もともと第7番は、
「自由」を象徴するために選んだ作品ではありませんでした。
しかし、
1989年11月12日の経験によって、ベートーヴェン第7番は自分の中でベルリンの壁崩壊と切り離せない作品になった
という趣旨を語っています。
偶然選ばれた曲が、
歴史によって特別な意味を持つようになったのです。
1か月後にはバーンスタインの「自由の第九」
ベルリンの壁崩壊後の音楽イベントとして、もう一つ非常に有名な演奏会があります。
1989年12月25日。
レナード・バーンスタインが東ベルリンのシャウシュピールハウスでベートーヴェン交響曲第9番を指揮しました。
この演奏では第4楽章の「Freude(歓喜)」を、
「Freiheit(自由)」
に置き換えて歌わせたことで有名です。
このクリスマス・コンサートは世界的に知られています。
しかしバレンボイムとベルリン・フィルの演奏会には、
壁開放からわずか3日後
という別の特別さがあります。
まだ誰も事態がどのように進むのか分からない時期。
歴史が動いている最中に開かれた演奏会だったのです。
カラヤン時代の終わりと、新しいベルリンの始まり
カラヤンはベルリン・フィルを1950年代から1989年まで率いました。
その長い在任期間の大部分は、
東西冷戦とベルリン分断の時代
と重なっています。
そしてカラヤンが亡くなった1989年。
偶然にも同じ年にベルリンの壁が崩壊しました。
カラヤンという巨大な存在を失ったベルリン・フィル。
壁による分断から解放され始めたベルリン。
1989年11月12日の演奏会は、
「カラヤン時代の終わり」と「新しいベルリンの始まり」が重なった瞬間
として見ることもできます。
まとめ
1989年11月12日に行われたバレンボイムとベルリン・フィルの特別演奏会は、
単なる壁崩壊記念コンサートではありませんでした。
- ベルリンの壁開放からわずか3日後
- 東ドイツ市民を無料招待
- DDR身分証が入場券代わり
- 朝5時から人々が行列
- トラバントで一晩過ごした観客もいた
- 会場は異常なほどの超満員
- バレンボイムがベートーヴェンを弾き振り
- 楽団員や観客が涙
- 楽団代表がテレビカメラの前で泣く
- 長年離ればなれだった母と息子が再会して演奏会へ
という、歴史的な出来事が重なっています。
そしてこの演奏会が行われたのは、
カラヤンの死からわずか4か月後。
ベルリン・フィル自身も大きな転換期を迎えていました。
壁が崩壊し、
ベルリンという街が変わり、
ベルリン・フィルも新しい時代へ向かい始める。
1989年11月12日のフィルハーモニーには、
音楽史だけではなく、ベルリンという都市そのものの歴史が詰まっていた
といえるでしょう。






