カラヤン、1979年中国へ ローター・コッホ転落事故とベルリン・フィル初公演の舞台裏
1979年10月。
ヘルベルト・フォン・カラヤンはベルリン・フィルを率いて、中国を初めて訪れました。
現在では世界の一流オーケストラが中国各地で演奏することは珍しくありません。
しかし1979年は、毛沢東の死からまだ3年。
文化大革命によって西洋クラシック音楽が長く排斥されていた時代が、ようやく終わり始めたばかりでした。
そんな中国へ、世界最高峰のベルリン・フィルと「帝王カラヤン」が乗り込んだのです。
ところが、この歴史的訪問は、
到着直後の大事故
から始まりました。
北京空港で仮設の搭乗用階段が崩れ、
ベルリン・フィル首席オーボエ奏者ローター・コッホとチェロ奏者アレクサンダー・ヴェドウが、約6メートル下へ転落。
二人は骨折して病院へ運ばれます。
さらに公開リハーサルでは観客が演奏中に歩き回り、食事をし、話し声まで聞こえる。
カラヤンは激怒。
それでも本番では4,000人を超える観客がベルリン・フィルに熱狂し、中国のオーケストラとの合同演奏まで実現しました。
今回は、カラヤン唯一の中国訪問となった1979年北京公演の舞台裏を詳しく見ていきます。
文化大革命の直後だった1979年
この中国公演の重要性を理解するには、当時の中国の状況を知る必要があります。
1966年から始まった文化大革命では、西洋クラシック音楽も強く制限されました。
ベルリン・フィル公式サイトによれば、毛沢東政権下では西洋音楽が禁止され、ベートーヴェンやブラームスなどヨーロッパの大作曲家が、事実上「国家の敵」のような扱いを受けていた時期さえありました。
毛沢東が死去したのは1976年。
そのわずか3年後に、
カラヤンとベルリン・フィルが北京で演奏する
というのは、中国の文化的開放を象徴する出来事だったのです。
ベルリン・フィル初の中国公演
ベルリン・フィルは1979年、日本公演を行った後に中国へ向かいました。
北京では3回の演奏会が予定されていました。
ベルリン・フィル公式資料によれば、カラヤンは、
- モーツァルト
- ベートーヴェン
- ブラームス
- ドヴォルザーク
- ムソルグスキー
といった自らの主要レパートリーを披露しました。
しかし北京へ到着した直後、思いもよらない事故が起こります。
北京空港で搭乗用階段が崩壊
ベルリン・フィル一行が乗っていたのは、当時としては大型の旅客機だったDC-10でした。
ところが北京空港には、この機体の高さに対応できる十分な搭乗用階段がなかったとされています。
中国側は臨時の設備を用意しました。
しかし、その強度に問題がありました。
ベルリン・フィルの団員が降機している途中、
搭乗用階段が突然崩れました。
ローター・コッホとアレクサンダー・ヴェドウが約6m転落
事故に巻き込まれたのが、
ベルリン・フィル首席オーボエ奏者、
ローター・コッホ
と、
チェロ奏者、
アレクサンダー・ヴェドウ
でした。
ベルリン・フィル公式サイトは、
二人が約6メートル下のコンクリートへ転落した
と記録しています。
二人は骨折し、病院へ搬送されました。
後年のベルリン・フィル史『Music at its Best』でも、二人の名前が明記されており、階段が二つに割れ、約19フィート下へ落下したとされています。
コッホは肋骨を骨折
中国側の回想資料では、事故の詳細がさらに具体的に伝えられています。
それによると、
ローター・コッホは肋骨を骨折。
一方のヴェドウは、両足のかかとを負傷したとされています。
ベルリン・フィルの黄金時代を代表する名オーボエ奏者コッホが、まさか中国到着直後にこのような事故に遭うとは、誰も想像していなかったでしょう。
さらに別の団員が心臓発作
事故はそれだけではありませんでした。
ベルリン・フィル関係者のハインツ・バートロークが空港で倒れ、心臓発作のような状態になったとも伝えられています。
ベルリン・フィル第一コンサートマスターだったトーマス・ブランディスの回想では、
カラヤン自身が倒れた団員に人工呼吸を行った
という話まで残っています。
到着したその日の空港で、
- 団員2名が約6m転落
- 別の団員が倒れる
- 救急車が出動
という、とんでもないスタートになったのです。
歓迎式の途中でカラヤンが突然立ち上がった
中国側の通訳だった張徳生の回想も非常に生々しいものです。
空港の貴賓室では、中国文化部関係者による歓迎式が始まっていました。
ところが途中、ドイツ人スタッフがカラヤンのところへ駆け寄り、耳元で何かを伝えます。
するとカラヤンはすぐ立ち上がり、
「私の楽団員が飛行機から落ちた」
という趣旨の言葉を残して部屋を飛び出したといいます。
歓迎の挨拶どころではなくなってしまったのです。
翌日、カラヤンは病院へ
カラヤンは翌日、入院している団員を見舞いました。
中国側の資料には、かなり人間味のある話も残されています。
ヴェドウは転落時に眼鏡を壊してしまいました。
本を読むことができないと話すと、
カラヤンが自分の眼鏡を取り出して「これを試してみたらどうだ」と渡した
と伝えられています。
普段は冷徹な「帝王」というイメージで語られることの多いカラヤンですが、こうした一面もあったようです。
ローター・コッホ不在で誰が吹いたのか
では、首席オーボエのローター・コッホが負傷した状態で、ベルリン・フィルはどうやって公演したのでしょうか。
中国側の音楽関係者による回想では、
当時第2オーボエだった奏者が首席パートを担当した
とされています。
その人物が、
アルブレヒト・マイヤー
だったという証言もあります。
マイヤーは後にベルリン・フィルの首席オーボエ奏者として世界的に知られることになります。
ただし、この点については中国側回想資料による記述であり、当時の公式編成表との照合が必要です。
北京には適切なコンサートホールがなかった
次にカラヤンたちを悩ませたのが会場でした。
1979年当時の北京には、
ベルリン・フィルのような大編成オーケストラに適した本格的コンサートホールがありませんでした。
そこで演奏会場として使われたのが、
北京体育館
でした。
当然ながら、体育館はクラシック音楽を演奏するために設計された施設ではありません。
ベルリン・フィル公式サイトも、
音響的には不十分なスポーツ施設で演奏しなければならなかった
と振り返っています。
公開リハーサルでカラヤンが激怒
そしてリハーサルでも文化の違いが表面化します。
公開リハーサルには大勢の中国人観客が入りました。
しかし当時の中国では、西洋式のクラシックコンサートの習慣自体がまだ広く浸透していませんでした。
そのため、
- 演奏中に話す
- 食べる
- 席を立って歩き回る
という観客がいたとベルリン・フィル公式サイトは記しています。
カラヤンにとっては信じられない光景だったでしょう。
「ここはカフェではない」
中国側の回想では、カラヤンが休憩中に、
「なぜこんなに大勢の人をリハーサルに入れたのか。ここはカフェではない」
という趣旨で不満を示したとされています。
ベルリン・フィル公式資料でも、
カラヤンが公開リハーサルから観客を排除すると警告した
ことが確認できます。
東西の音楽文化の違いが、真正面からぶつかった瞬間でした。
本番前に「コンサートの聴き方」を説明
中国側も対策を取ります。
本番では観客に対し、
演奏中は静かにすること
などを説明した冊子や注意書きが用意されました。
さらに場内放送でも、演奏中のマナーについて説明したとされています。
中国の資料には、
「椅子を立ったり座ったりする際にも音を立てないように」
といった細かな注意まであったと記録されています。
その効果もあったのか、
正式公演ではリハーサル時のような混乱は起こりませんでした。
4,000人を超える観客が熱狂
ベルリン・フィル公式サイトによれば、
3回の演奏会はいずれも4,000人を超える観客
で埋まりました。
多くは組織的に選ばれた労働者や政府関係者だったとされています。
しかし一方で、
地方から長時間かけて北京までやってきた熱心な音楽ファン
もいました。
彼らは埃まみれになりながら列に並び、高額だったチケットを求めたとベルリン・フィルは紹介しています。
文化大革命を経たばかりの中国にも、西洋クラシック音楽を本当に聴きたい人たちが確実に存在していたのです。
ムソルグスキーが政治問題になりかけた
この訪中公演には、冷戦時代らしい珍事件もありました。
カラヤンはムソルグスキーの、
《展覧会の絵》
を演奏する予定でした。
ところが中国側が、
ムソルグスキーがロシア人作曲家だったこと
に気づきます。
当時、中国とソ連の関係は極めて悪化していました。
中ソ対立の真っただ中だったのです。
そのため《展覧会の絵》は一時、
演奏曲目から外される可能性まであった
とベルリン・フィル公式サイトが明らかにしています。
現在では考えにくい話ですが、
作曲者の国籍まで政治問題になった時代でした。
それでも《展覧会の絵》は演奏された
最終的には《展覧会の絵》も演奏されました。
政治的にはソ連と対立していても、
西洋クラシック音楽を再び受け入れようとしていた中国側にとって、これは難しい判断だったのでしょう。
こうしたエピソードからも、
1979年の中国公演が単なる音楽ツアーではなかった
ことが分かります。
中国のオーケストラと合同でベートーヴェン第7番
そして今回の訪中で特に象徴的だったのが、
中国側の中央楽団とベルリン・フィルによる合同演奏
です。
演奏されたのはベートーヴェン交響曲第7番。
カラヤンが指揮しました。
文化大革命では西洋クラシック音楽が排斥されていた中国の音楽家たちが、
数年後には世界最高峰のベルリン・フィルと同じ舞台でベートーヴェンを演奏している。
これは中国音楽界にとって非常に大きな出来事でした。
カラヤンは中国人奏者に厳しかった
合同リハーサルについては、中国側に厳しい証言も残っています。
カラヤンは中国側の奏者に対して、
音が粗い、音量が足りない
という趣旨の指摘を行い、ベルリン・フィルの奏者に実演させたといいます。
かなり厳しい要求だったようです。
ただし、それまで世界のトップオーケストラと直接演奏する機会が少なかった中国側奏者にとって、
ベルリン・フィルの音をすぐ隣で体験すること自体が非常に大きな刺激になりました。
ベルリン・フィルの音が中国に与えた衝撃
当時の中国の音楽家たちの回想には、
ベルリン・フィルの演奏について、
「それまで聴いたことのない音だった」
という驚きが繰り返し登場します。
特に弦楽器のまとまり、木管の美しさ、ホルンの厚い響きなどは大きな衝撃だったようです。
中国の音楽教育やオーケストラ文化が大きく発展するのは、その後1980年代以降。
1979年のベルリン・フィル訪中は、
その出発点の一つ
と見ることもできます。
カラヤンは二胡の演奏に感動した?
中国側には、カラヤンと中国伝統音楽をめぐる興味深い逸話もあります。
演奏後の交流の場で、
中央音楽学院の学生が二胡の名曲《二泉映月》を演奏したとされています。
中国側資料によれば、
カラヤンはその演奏に強く感動した
と伝えられています。
ただしこの話は主に中国側の回想に基づくため、ベルリン・フィル公式資料などでは確認できません。
それでも、カラヤンが中国の伝統音楽にも関心を示したという興味深いエピソードです。
カラヤンは再び中国へ来なかった
ベルリン・フィルの1979年訪中は大成功しました。
それにもかかわらず、
カラヤンはその後二度と中国を訪れることはありませんでした。
事故、会場設備、文化の違いなど、さまざまな問題が重なったことも影響していたのかもしれません。
中国側の回想には、
カラヤンが「もう中国へは来ない」という趣旨の発言をしたという話もあります。
ただし、これについては公式記録では確認できないため、断定は避けるべきでしょう。
ベルリン・フィルも次の中国公演まで26年
驚くことに、
ベルリン・フィル自体もその後長い間、中国を訪れませんでした。
次に中国公演を行ったのは、
2005年。
1979年から実に26年後です。
その頃には中国の状況は完全に変わっていました。
世界水準のコンサートホールが建設され、
中国人演奏家が世界のクラシック音楽界で活躍するようになりました。
1979年当時とは別世界です。
1979年公演から現在の中国音楽界へ
現在、中国は世界最大級のクラシック音楽市場の一つになっています。
北京や上海には世界的な音響を持つコンサートホールがあり、
世界のトップオーケストラが定期的に訪れています。
ピアニストのラン・ランやユジャ・ワンなど、
中国出身の世界的音楽家も珍しくなくなりました。
その現在から1979年を見ると、
カラヤンとベルリン・フィルの初訪中がいかに特殊な出来事だったか
がよく分かります。
まとめ
1979年のカラヤンとベルリン・フィルによる中国公演は、
単なる海外演奏旅行ではありませんでした。
- 文化大革命終了直後の中国
- ベルリン・フィル初の訪中
- 北京空港で搭乗用階段が崩壊
- ローター・コッホとアレクサンダー・ヴェドウが約6m転落
- コッホは肋骨を骨折
- 北京には適切なコンサートホールがなかった
- 体育館で演奏
- 公開リハーサルで観客が話す、食べる、歩き回る
- カラヤンが激怒
- 《展覧会の絵》が中ソ対立で問題になりかける
- 中国中央楽団とベルリン・フィルが合同演奏
- 本番には4,000人を超える観客
という、非常に多くの出来事がありました。
中でも北京空港の事故は、
ベルリン・フィル黄金時代の首席オーボエ奏者ローター・コッホが、約6メートル下へ転落する
という信じられない出来事でした。
それでもベルリン・フィルは公演を続行。
文化大革命によって長く西洋音楽から切り離されていた中国の聴衆に、世界最高峰のオーケストラの響きを届けました。
現在では中国に世界的なクラシック音楽文化が根付いています。
その長い歴史を振り返ると、
1979年のカラヤンとベルリン・フィル訪中は、中国クラシック音楽界の新しい時代を象徴する出来事の一つだった
といえるでしょう。




