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カラヤンはなぜウィーン国立歌劇場を辞めた?『ラ・ボエーム』中止とヒルベルトとの権力闘争

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1950年代から60年代にかけて、ウィーン国立歌劇場で絶大な権力を持っていたヘルベルト・フォン・カラヤン。

しかし1964年、カラヤンは突然、芸術監督の座を去ります。

その背景には単なる「人事上の対立」では片付けられない、かなり複雑な騒動がありました。

労働組合との衝突、外国人プロンプターをめぐって中止になった《ラ・ボエーム》、そして共同監督エゴン・ヒルベルトとの激しい権力争い。

さらに興味深いのは、カラヤンが辞任という強力なカードを切ったにもかかわらず、結果的にはライバルだったヒルベルトがウィーン国立歌劇場の単独監督になったことです。

今回はオーストリア国会議事録、ウィーン国立歌劇場の公式記録、オーストリア放送協会(ORF)、当時の文化誌など海外資料をもとに、カラヤンがウィーンを去るまでの経緯を詳しく見ていきます。

カラヤンはウィーン国立歌劇場で絶大な権力を持っていた

カラヤンは1956年9月、ウィーン国立歌劇場の芸術的責任者となりました。

戦後再建されたばかりの国立歌劇場で、カラヤンは指揮だけでなく演出にも積極的に関わり、歌手の起用、作品制作、国際的なスター歌手との契約など、劇場運営に大きな影響力を持つようになります。

しかしカラヤンの理想は徹底していました。

芸術的に必要だと判断したことについては、行政や労働組合から細かく干渉されることを嫌ったのです。

これがやがて、オーストリアの国立劇場という巨大な官僚組織との衝突につながっていきます。

1962年、カラヤンはすでに一度辞任を表明していた

実はカラヤンが辞任を申し出たのは1964年が初めてではありません。

1962年2月、舞台スタッフをめぐる労使問題から、カラヤンは一度辞任を表明しています。

当時の舞台スタッフは、完全なストライキではないものの、作業を意図的に遅らせる、いわゆる「スローダウン」に近い行動を取っていました。

そんな状況の中でもカラヤンはドビュッシー《ペレアスとメリザンド》を上演。

舞台機構が十分に使用できるか分からないため、舞台美術家ギュンター・シュナイダー=ジームセンは照明や投影を効果的に使用しました。

英国の著名な評論家ネヴィル・カーダスが、この上演に深く感動したと伝えられています。

しかし芸術的な成功とは別に、劇場内部ではカラヤンと労働組合・行政側との溝が深まっていました。

最終的にカラヤンはこの時の辞表を撤回します。

ただし、ここからウィーン国立歌劇場の経営体制が変化していきました。

カラヤン一人ではなく「共同監督制」へ

カラヤンは芸術面に集中し、行政や劇場経営を担当する人物を横に置く体制を望むようになります。

ウィーン国立歌劇場の公式記録によれば、1962年4月からカラヤンとヴァルター・エーリヒ・シェーファーによる共同体制となり、1963年6月9日からはシェーファーに代わってエゴン・ヒルベルトが共同監督に就任しました。

ところが、このエゴン・ヒルベルトの登場が後にカラヤンの運命を大きく変えることになります。

エゴン・ヒルベルトとは何者だったのか

エゴン・ヒルベルトは、単なる劇場の事務担当者ではありませんでした。

行政や法律にも強い文化官僚タイプの人物で、劇場経営についても独自の考えを持っていました。

カラヤンとしては、

「芸術は自分が決め、行政面をヒルベルトに任せる」

という感覚だったのかもしれません。

ところが実際の契約は、カラヤンが考えていたほど単純ではありませんでした。

1964年にオーストリアの文化誌『FORVM』が当時の契約関係を検証しています。

それによればヒルベルトの契約には、芸術運営についてカラヤンと共同で責任を負い、芸術面の処分権限についてもカラヤンと同等の立場に置かれる趣旨の規定がありました。

つまりヒルベルトは、

「カラヤンを補佐する事務方」ではなく、契約上かなり強い権限を持った共同監督

だったのです。

1963年「ラ・ボエーム事件」が発生

そして1963年、ウィーン国立歌劇場史に残る騒動が起きます。

カラヤンはプッチーニの《ラ・ボエーム》を上演するにあたり、ミラノから「Maestro suggeritore(マエストロ・スッジェリトーレ)」を呼ぼうとしました。

普通のプロンプターではなかった

オペラには、歌手が歌詞や出のタイミングを忘れた際などに舞台袖やプロンプターボックスから助ける「プロンプター」がいます。

しかしカラヤンがイタリアから呼ぼうとした人物は、それとは少し役割が異なりました。

ORFは、この「Maestro suggeritore」を、ミラノ・スカラ座では一般的だった「一緒に指揮するような音楽的プロンプター」として説明しています。

歌詞を教えるだけでなく、歌手に音楽的なタイミングや入りまで指示する、いわば副指揮者に近い専門職です。

カラヤンにとっては、自分が求めるイタリア・オペラの水準を実現するために必要なスタッフだったのでしょう。

「ウィーンのプロンプターでは駄目なのか」労組が反発

ところがウィーン側の労働組合がこれに反対します。

国立歌劇場にはすでにプロンプターがいるのだから、外国人をわざわざ連れてくる必要はない、というわけです。

カラヤン側は、

「普通のプロンプターとMaestro suggeritoreは仕事が違う」

と考えていました。

しかし労働組合側から見れば、自分たちの職域に外国人スタッフが入ってくる問題でもありました。

双方は譲らず、対立は決定的になります。

観客がすでに入場した後に「ラ・ボエーム」が中止

そして事態は異例の展開になります。

《ラ・ボエーム》の公演当日。

観客はすでにウィーン国立歌劇場に入場していました。

ラジオ中継も準備されていました。

ところが、オペラは始まりません。

幕の前に現れたのは歌手ではなく、

カラヤンとヒルベルト。

『Die Presse』が紹介する目撃証言によれば、カラヤンは青ざめ、ヒルベルトは顔を真っ赤にしていたといいます。

ヒルベルトが公演中止について説明しようとすると、客席から激しい反応が起きました。

一方からはカラヤンを支持する声。

一方からはカラヤンを批判し、ミラノへ帰れという趣旨の野次。

当時のウィーンでは、

「カラヤン支持か、反カラヤンか」

と言われるほど、この問題が大きな社会的論争になっていたようです。

本当の問題は「プロンプター」ではなかった

表面的にはプロンプターをめぐる労働問題です。

しかし、この事件の本質はもっと大きなものでした。

それは、

「ウィーン国立歌劇場の最終決定権を誰が持つのか」

という問題です。

カラヤンは芸術監督として、自分が必要と判断した歌手や演出家、スタッフを自由に起用できなければ最高水準のオペラは作れないと考えていました。

一方、国立歌劇場は公的機関です。

労働法、契約、予算、行政、労働組合との協定を無視することはできません。

カラヤンの徹底した芸術至上主義と、巨大な公的組織の仕組みが正面衝突したともいえるでしょう。

カラヤンとヒルベルトの関係も悪化

さらに問題を複雑にしたのが、カラヤンと共同監督ヒルベルトとの対立です。

ORFが伝えている非常に興味深い出来事があります。

ヒルベルトは劇場の日程編成権を使い、カラヤン演出によるワーグナー《タンホイザー》の再演を組みました。

ところが、その日にはカラヤンがベルリン・フィルを指揮するウィーンでの演奏会が予定されていました。

つまりカラヤンは、

自分の《タンホイザー》と、自分が率いるベルリン・フィルの演奏会が同じ日に重なる

という状況に置かれます。

しかもカラヤンが問題に気づいた時には、ヒルベルトはすでに《タンホイザー》の指揮者としてオスカー・ダノンを確保していました。

カラヤンがいなくても、カラヤン演出の《タンホイザー》を上演できる体制が出来上がっていたのです。

これはカラヤンにとって相当な屈辱だったのではないでしょうか。

1964年5月8日、カラヤンは辞表を提出

そして1964年5月8日。

カラヤンはチューリヒから、オーストリア教育相テオドール・ピフル=ペルチェヴィッチに書簡を送り、ウィーン国立歌劇場の芸術監督を辞任する意思を伝えました。

この書簡が非常に興味深いのは、現在でもオーストリア国会の公式議事録で確認できることです。

1964年6月17日のオーストリア国民議会では、ウィーン国立歌劇場の監督問題が議題となり、教育相自身がカラヤンの手紙を読み上げています。

つまり、カラヤンの辞任問題は音楽界だけの内紛ではありませんでした。

オーストリア国会で議論されるほどの政治問題

になっていたのです。

辞任理由として書かれていたのは「健康問題」

カラヤンの辞任書で正式な理由として挙げられていたのは健康状態でした。

医学的検査の結果を踏まえ、これ以上芸術監督としての重い職責を続けることが難しいという内容でした。

ただし、カラヤンはウィーン国立歌劇場との関係を完全に断つとは書いていません。

監督を辞めた後も、

指揮者・演出家として劇場で活動する可能性

は残していました。

そのためには、自分がこれまで築いてきた芸術的な制作条件が保証される必要があるとも考えていました。

つまり、

「劇場の経営責任者は辞める。しかし自由に芸術活動ができるなら仕事は続ける」

という形だったのです。

ところがカラヤンには大きな誤算があった

ここから、この事件は非常に皮肉な展開になります。

ORFによればカラヤンは、自分が辞任すれば共同監督のヒルベルトも辞任するものと考えていたとされています。

ところが、そうはなりませんでした。

ヒルベルトには「一緒に辞める義務」がなかった

1964年9月に文化誌『FORVM』へ掲載されたハラルト・カウフマンの記事では、ヒルベルトの契約内容が詳しく検討されています。

それによるとヒルベルトは1963年から5年間の正式な契約を持っていました。

しかも、

カラヤンが辞任した場合にヒルベルトも辞任しなければならない、という義務は契約に存在しませんでした。

辞任する「権利」はあっても、辞任する「義務」はなかったのです。

さらに皮肉なことに、ヒルベルトの契約を提案したのはカラヤンだった

さらに驚くべき記述があります。

『FORVM』によると、ヒルベルトに正式な長期契約を与えることを提案した人物は、

カラヤン自身だった

とされています。

これは非常に皮肉です。

カラヤンが劇場経営を安定させるために迎えた共同監督。

その人物に強固な契約が与えられ、

やがて両者が対立。

カラヤンが辞表を出した結果、

カラヤンではなくヒルベルトが劇場に残った。

辞任というカードを切れば相手側が折れる――そんな計算がもしカラヤンにあったのだとすれば、完全に裏目に出たことになります。

有名な《フィデリオ》で客席から「ヒルベルト!」

辞任騒動の最中、1964年5月21日、カラヤンはウィーン国立歌劇場でベートーヴェン《フィデリオ》を指揮しました。

ウィーン国立歌劇場の公式記録によれば、

  • フロレスタン:ジェームズ・マクラッケン
  • レオノーレ:クリスタ・ルートヴィヒ
  • ドン・ピツァロ:ヴァルター・ベリー
  • ロッコ:ヴァルター・クレッペル
  • マルツェリーネ:グンドゥラ・ヤノヴィッツ

という豪華な出演者でした。

演出もカラヤン自身です。

この公演ではカラヤンに対する観客の支持が非常に強く、ORFによれば客席は騒然とするほどの雰囲気になったといいます。

そして《フィデリオ》の劇中、フロレスタンがロッコに牢獄の責任者について尋ねる場面。

その瞬間、客席の上方から、

「ヒルベルト!」

という声が飛んだという有名な逸話が残っています。

本来は劇中人物についての台詞なのに、観客が「この牢獄の支配者はヒルベルトだ」と現実の劇場内紛に重ねたわけです。

当時のウィーンの観客が、カラヤンとヒルベルトの対立をどれほど強く意識していたかが分かるエピソードでしょう。

注意:《フィデリオ》がカラヤン最後のウィーン国立歌劇場公演ではない

この《フィデリオ》はカラヤンの「別れの公演」のように紹介されることがありますが、厳密にはカラヤン最後の国立歌劇場出演ではありません。

ウィーン国立歌劇場公式アーカイブを見ると、カラヤンはその後も1964年6月に国立歌劇場で指揮しています。

例えば6月11日と17日のリヒャルト・シュトラウス《影のない女》では、カラヤンが指揮と演出を担当しています。

そのため《フィデリオ》は、

「辞任騒動の象徴となった公演」

と考えるのが正確でしょう。

1964年9月、ヒルベルトが単独監督に

そして1964年8月31日をもって、カラヤンとヒルベルトによる共同監督体制は終了します。

翌9月1日からウィーン国立歌劇場を率いた人物は、

エゴン・ヒルベルト。

ウィーン国立歌劇場公式の歴代監督一覧にも、

1963年6月9日~1964年8月31日
「Herbert von Karajan, Egon Hilbert」

その直後に、

1964年9月1日~1968年1月18日
「Egon Hilbert」

と明記されています。

結果だけを見れば、権力闘争に勝ったのはヒルベルトだったともいえます。

カラヤンがウィーンを去った本当の理由とは

では結局、カラヤンはなぜウィーン国立歌劇場を辞めたのでしょうか。

一つの理由に絞ることはできません。

少なくとも、

  • 労働組合との長年の対立
  • 芸術的決定に行政が介入することへの不満
  • 「ラ・ボエーム」のMaestro suggeritore事件
  • 共同監督ヒルベルトとの権限争い
  • カラヤン自身の健康問題
  • 国立劇場という公的組織とカラヤンの芸術至上主義との相性の悪さ

などが複雑に絡んでいました。

とりわけ重要なのは、

カラヤンにとって最高水準の芸術を作るための「自由」と、国立歌劇場という組織が要求する「制度」が両立しなくなった

ことではないでしょうか。

ウィーンでの失敗が「カラヤン帝国」を生んだ?

しかし、カラヤンはこの一件で音楽界から後退したわけではありません。

むしろその後、ベルリン・フィルを中心に活動しながら、ザルツブルクで自分の芸術的理想を実現する方向へ進んでいきます。

そして1967年にはザルツブルク復活祭音楽祭を創設。

そこでカラヤンは指揮だけでなく、演出や舞台制作にも強く関与し、自分の理想とする音楽劇を作るようになります。

ウィーン国立歌劇場では、労働組合、行政、共同監督など数多くの相手との調整が必要でした。

その経験から、

「それなら自分が主導できる仕組みを作ればいい」

という方向へ向かったと考えると、その後のカラヤンの活動も非常に興味深く見えてきます。

まとめ

カラヤンのウィーン国立歌劇場辞任事件は、一人のスター指揮者と劇場経営者が仲違いしただけの話ではありません。

世界最高水準の舞台を作ろうとするカラヤンと、労働組合や法律、契約によって運営される国立劇場という組織との衝突でした。

しかもカラヤン自身が共同監督として迎えたヒルベルトが、結果的にはカラヤン退任後の単独監督になります。

1963年の《ラ・ボエーム》公演中止から始まり、《タンホイザー》の日程をめぐる駆け引き、国会まで巻き込んだ辞任騒動、そして《フィデリオ》で客席から飛んだ「ヒルベルト!」の声。

カラヤンの華麗な経歴の裏側には、このような激しい権力闘争も存在していました。

そして皮肉なことに、ウィーンを去ったことでカラヤンはその後、自分の芸術的理想をより自由に追求する道へ進んでいくことになります。

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