カラヤンはオペラ歌手に嫌われていた? ルネ・コロ、ニルソンらが語った素顔
ヘルベルト・フォン・カラヤンといえば、ベルリン・フィルを率いた20世紀屈指の名指揮者として知られています。
その一方で、オペラの現場では歌手との衝突も少なくありませんでした。圧倒的な統率力と完璧主義、そして自らの音楽像を強く押し通す姿勢は、歌手たちにとって必ずしも歓迎されるものではなかったようです。
実際、ルネ・コロやビルギット・ニルソン、クリスタ・ルートヴィヒらの証言をたどると、カラヤンに対する評価は驚くほど複雑です。
「歌手を理解しない独裁者」だったのか、それとも「歌手を最高の状態に導く天才」だったのか。
ここでは、海外に残る名歌手たちの証言から、オペラ指揮者としてのカラヤンの実像を探ってみます。
ルネ・コロとは「父と息子」のような関係だった
ドイツを代表するヘルデンテノール、ルネ・コロは、若い頃からカラヤンと数多く共演しました。
コロは後年、1970年に録音されたワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」について、非常に幸福な経験だったと振り返っています。
さらに、カラヤンと共演した7〜8年間についても「夢のようだった」と語っており、少なくとも若き日のコロにとって、カラヤンは恐ろしい独裁者というだけの存在ではありませんでした。
コロはまた、カラヤンについて、オーケストラや楽譜、響きに対する知識が非常に深かったとも評価しています。
ワーグナー演奏についても高く評価しており、「マイスタージンガー」を本当に理解していた指揮者の一人としてカラヤンを挙げています。
「ローエングリン」で大喧嘩、コロはザルツブルクを去った
しかし、その関係は常に良好だったわけではありません。
ザルツブルクで行われた「ローエングリン」の稽古では、二人の間に激しい衝突が起こりました。
当時のカラヤンは手術後間もない状態で、医師から本来なら休養を命じられていたほど体調が悪かったといいます。一方のコロも扁桃炎を患っていました。
そんな中、衣装をめぐる問題から口論となり、コロはついに荷物をまとめてザルツブルクを去ってしまいました。
新聞はこの出来事を大きく報じ、「ついに誰かが帝王カラヤンに逆らった」といった調子で騒ぎ立てたようです。
しかしコロ自身は、そうした英雄扱いを望んではいませんでした。むしろ、この騒動を恥ずかしく感じていたと後に語っています。
絶縁状態から数年後、二人は再び録音を完成させた
喧嘩の後、カラヤンとコロは数年間ほとんど連絡を取らなくなりました。
ところが6〜7年ほど経った頃、コロの方からカラヤンに手紙を送りました。
内容は、途中で止まっていた「ローエングリン」の録音を完成させないか、という提案でした。
すると数時間後、カラヤンから返事が届きます。
カラヤンも同じことを考えており、すでに録音テープを取り寄せていたというのです。
こうして二人は再び協力し、録音を完成させました。
コロは後年、カラヤンとの関係について「父と息子のようだったのかもしれない」という趣旨の言葉を残しています。
激しく衝突しながらも、互いの才能を認め合っていたからこそ成立した関係だったのでしょう。
ビルギット・ニルソンはカラヤンに不満を抱いていた
カラヤンとの関係が必ずしも良好ではなかった歌手として有名なのが、ソプラノのビルギット・ニルソンです。
ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスを得意とした20世紀屈指の大歌手ですが、カラヤンとの間にはしばしば緊張があったと伝えられています。
ニルソンが不満を持っていたことの一つが、カラヤンが演出にも強く関与し、照明など舞台上の細部に長い時間を費やしたことでした。
カラヤンは単なる指揮者ではなく、舞台全体を自分の作品として完成させようとするタイプでした。
しかし歌手側から見れば、その完璧主義が負担になることもあったようです。
暗譜指揮はオペラでは弱点にもなった
ニルソンの証言で特に興味深いのが、カラヤンの暗譜指揮に対する批判です。
カラヤンは膨大なレパートリーを暗譜で指揮することで知られていました。
これはオーケストラ指揮者としては驚異的な能力ですが、オペラの場合には別の問題が生じます。
舞台上の歌手が突然歌詞や入りを失った時、指揮者が譜面を見ていれば即座に助けることができます。
ところが、すべてを記憶に頼っている場合、歌手の細かなトラブルに対応しづらいことがあります。
ニルソンは、カラヤンがスコアを持たずに指揮していたため、歌手が途中で迷った時に十分助けられないことを問題視していました。
カラヤンの最大の武器の一つだった「完全暗譜」が、オペラの現場では逆に弱点になる場合があったというのは興味深い話です。
クリスタ・ルートヴィヒにブリュンヒルデを歌わせようとした
カラヤンの歌手に対する要求の厳しさを示す別の逸話があります。
名メゾソプラノ、クリスタ・ルートヴィヒに、ワーグナーの「ワルキューレ」のブリュンヒルデを歌わせようとしたのです。
ブリュンヒルデは通常、非常に強い声を持つドラマティック・ソプラノが歌う役です。
ルートヴィヒは挑戦したものの、数週間ほどでこの計画から降りました。
その話を聞いた指揮者カール・ベームは、カラヤンについて「犯罪者だ」とまで言ったと伝えられています。
歌手の声に無理をさせる危険な配役だと考えたのでしょう。
もっとも、ベーム自身も後にルートヴィヒに「私となら歌える」と言ったという話が残っており、この一件にはいかにもオペラ界らしいユーモアがあります。
それでも歌手を巧みに支えたという証言もある
ここまで見ると、カラヤンは歌手を無視し、自分の理想だけを押し付けた指揮者のようにも見えます。
しかし実際には、それとは逆の証言も少なくありません。
クリスタ・ルートヴィヒは、リヒャルト・シュトラウスの「影のない女」などで、カラヤンがテンポやオーケストラとのバランスを細かく調整し、歌いやすい環境を作っていたことも認めています。
つまりカラヤンは、歌手に無関心だったわけではありません。
むしろ、自分が理想とする舞台を実現するためには、歌手の能力を最大限引き出すことも重要だと考えていたのでしょう。
ベルリン・フィルを極端な弱音で鳴らしたカラヤン
ルネ・コロが残した別の証言からは、カラヤンの驚異的なオーケストラコントロールが分かります。
1974年、ザルツブルクで「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の稽古をしていた時のことです。
カラヤンが突然指揮をやめました。
コロは稽古が中断されたと思い、歌うのをやめました。
ところがベルリン・フィルは演奏を続けており、カラヤンから「続けて」と指示されたそうです。
コロによれば、ベルリン・フィルの弱音があまりに静かだったため、オーケストラが演奏していることに気づかなかったといいます。
ワーグナーの巨大なオーケストラを、それほどまでに繊細な音量でコントロールしていたわけです。
カラヤンのオペラ演奏を考えるうえで、この証言は非常に象徴的です。
カラヤンは本当に「オペラを知らない指揮者」だったのか
一部の歌手からカラヤンのオペラ指揮に対する不満が語られているのは事実です。
しかし、今回確認できた証言を見る限り、「カラヤンはオペラの勉強不足だった」と単純に結論づけるのは適切ではなさそうです。
むしろ問題だったのは、知識不足というよりも、カラヤン自身が持つ強烈な美学と完璧主義だったのではないでしょうか。
オーケストラの響き、テンポ、舞台装置、照明、歌手の動きまで含め、すべてを自分の構想の中に収めようとする。
その結果、歌手との意見が一致した時には驚異的な舞台が生まれます。
しかし、意見が合わなければ激しい衝突にもなりました。
帝王カラヤンにも歌手だけは完全には支配できなかった
ベルリン・フィルでは絶対的な権力を持ったカラヤンですが、オペラの舞台では事情が少し違いました。
歌手、とりわけニルソンやコロのような世界的スターは、それぞれ強烈な個性と音楽観を持っています。
カラヤンほどの人物であっても、彼らを完全に自分の思い通りにすることはできませんでした。
だからこそ衝突が生まれ、同時に名演も生まれたのでしょう。
カラヤンと名歌手たちの関係を見ると、オペラとは指揮者一人が作るものではなく、巨大な才能同士のせめぎ合いによって成立する芸術なのだということがよく分かります。





