カラヤンとベルリンフィル研究ブログ

カラヤンとベルリン・フィル、そして早稲田大学交響楽団の物語

2025年11月27日 当サイトにはプロモーションが含まれます

カラヤン、ベルリン・フィル、早稲田大学――三つの名前をつなぐ縁

20世紀を代表する指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンと、その黄金期をともに築いた ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。そして日本の学生オーケストラの中でも 特別な存在感を放つ早稲田大学交響楽団(通称ワセオケ)。
一見すると遠く離れているように見えるこの三者は、じつは深い縁で結ばれています。
その中心にあるのが、1978年の「カラヤン・コンクール」優勝と、 翌1979年に早稲田大学がカラヤンへ贈った名誉博士号、そして大隈講堂での公開リハーサルでした。

ここでは、その歴史をたどりながら、ベルリン・フィルと早稲田大学の 音楽的・人的な交流がどのように育まれてきたのかを、ゆっくりと振り返ってみます。

1978年「カラヤン・コンクール」優勝――ベルリン・フィルの本拠地で鳴り響いたワセオケの音

物語の出発点は、1978年にベルリンのカラヤン財団が主催した 第5回国際青少年オーケストラ大会、通称「カラヤン・コンクール」です。
世界各地から選りすぐりの若いオーケストラが集まるこの大会に、 早稲田大学交響楽団は日本からただ一つの代表として参加しました。

会場は、ベルリン・フィルの本拠地として知られるベルリン・フィルハーモニー。
学生オーケストラにはあまりに大きく、そして重い看板を背負った舞台でしたが、 ワセオケはストラヴィンスキーの<春の祭典>を選び、 果敢にこの難曲に挑みます。
緻密なリズムとエネルギーあふれる演奏は高く評価され、 ついにワセオケは金賞を受賞。世界の若手オーケストラの中で頂点に立ちました。

審査を見守っていたカラヤンは、その演奏に驚嘆したと言われています。
「一人のプロもいない学生オーケストラだとは信じられない」―― そう語り、将来必ずこのオーケストラを自分が指揮しようと約束した、と伝えられています。
このとき交わされた約束が、のちに早稲田大学とカラヤン、 そしてベルリン・フィルを結びつける大きな伏線となりました。

1979年 名誉博士号と大隈講堂の公開リハーサル

翌1979年、早稲田大学はカラヤンの芸術的業績と、 ワセオケとの深い関わりをたたえ、名誉博士号を贈ることを決定します。
授与式が行われたのは、早稲田大学の象徴ともいえる大隈講堂でした。

式典当日、袴姿の学生やスーツに身を包んだ聴衆が詰めかけ、講堂は超満員。
大学歌が流れるなか、アカデミック・ガウンをまとったカラヤンが 壇上へゆっくりと歩み出ると、会場は大きな拍手に包まれます。
総長から名誉博士号が授与されると、カラヤンは短く挨拶を述べ、 そのまま指揮台へと向かいました。

この日ワセオケが演奏したのは、リヒャルト・シュトラウスの 交響詩<ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら>。
カラヤンは公開リハーサルという形で学生オーケストラを指揮し、 細やかなテンポのニュアンスやフレージング、 ドイツ的な管弦楽のバランスを、身振りと言葉で丁寧に伝えました。

ベルリン・フィルの終身指揮者が、目の前で自分たちのオーケストラを振っている――。
その光景は、当時の団員にとってまさに「夢のような1時間」だったといいます。
この体験は、ワセオケの中で世代を超えて語り継がれる伝説となり、 「学生オーケストラでも世界に通用する」という自信と誇りを 強く刻みつけました。

ベルリン・フィルと早稲田大学の交流――名手たちがキャンパスへ

カラヤンへの名誉博士号授与は、単なる一回きりのイベントでは終わりませんでした。
その後も、ベルリン・フィルと早稲田大学の間では、 さまざまな形での交流が続いていきます。

ワセオケの楽団史を見ると、1980年代以降、 ベルリン・フィルの首席・ソロ奏者たちが再三来日し、 客演やレッスンで学生たちと共演していることが分かります。
第1コンサートマスターの安永徹をはじめ、 チェロのオットマール・ボルヴィツキー、ホルンのゲルト・ザイフェルト、 オーボエのハンスイェルク・シェレンベルガーら、当時のベルリン・フィルを 支えた名手たちが、早稲田の学生たちと同じ舞台に立ったのです。

彼らの多くは、単なるゲスト・ソリストではなく、 合奏の公開レッスンやセクション練習もじっくり行い、 本場ヨーロッパ・オーケストラの響きと音楽観を直接伝えてくれました。
「ベルリン・フィルの音」が、早稲田のキャンパスに響いた瞬間だったと言えるでしょう。

ベルリン・フィルハーモニーへの凱旋――学生オーケストラとして異例の存在感

一方で、ワセオケはその後もヨーロッパ演奏旅行を重ね、 再びベルリン・フィルハーモニーの舞台へ帰っていきます。
1980年代には西ドイツ各地をまわるツアーのなかでベルリン公演を行い、 フィルハーモニーでレコーディングやテレビ・ラジオ収録が行われました。
学生オーケストラがこのような形でドイツ主要メディアの注目を浴びることは、 当時としても異例の出来事でした。

さらに2000年代・2010年代に入ってからも、 ワセオケは何度もベルリン・フィルハーモニーに招かれています。
2006年、2015年、そして2020年代に入ってからのツアーでは、 フィルハーモニーの大ホールで定期演奏会さながらのプログラムを披露し、 現地の聴衆から熱狂的な拍手を受けました。
ある公演はベルリン・フィルの「デジタル・コンサートホール」を通じて 世界へ配信され、早稲田の学生たちの演奏がリアルタイムで 世界中に届けられたことも、象徴的な出来事です。

ベルリン・フィルの本拠地であるフィルハーモニーに、 何度も招かれ、ホールの歴史の一部を担ってきた学生オーケストラ――。
その背景には、1978年のカラヤン・コンクール優勝と、 翌年のカラヤンによる公開リハーサルという、忘れがたい記念碑的な出来事が横たわっています。

カラヤン生誕100年を早稲田で祝う――大隈講堂に蘇る記憶

2008年、カラヤンの生誕100年を記念して世界各地で様々な行事が行われました。
早稲田大学でも、この年に「カラヤン生誕100年記念演奏会」が 大隈講堂で開催され、ワセオケが再びステージに立ちました。

プログラムには、かつての公開リハーサルを想起させる リヒャルト・シュトラウス作品が組まれ、 ホールの空気には1979年の記憶が静かに重なります。
同時期には早稲田キャンパス内のギャラリーで 「カラヤンと早稲田大学交響楽団」をテーマにした展示が開かれ、 当時の写真や資料を通して、カラヤンと早稲田の交流の歩みが紹介されました。

この記念演奏会は、カラヤン財団から公式に「生誕100年記念コンサート」として 認められ、専用ロゴの使用も許可されました。
これは、早稲田大学とワセオケが、 単なる一度限りのゲストではなく、 カラヤンの歴史そのものの一部として位置づけられていることの証でもあります。

大隈講堂とフィルハーモニー――二つの「ホーム」で育つ音楽文化

この物語の舞台は、大きく分けて二つあります。
ひとつは早稲田大学の象徴である大隈講堂、 もうひとつはベルリン・フィルの本拠地ベルリン・フィルハーモニーです。

大隈講堂は、学生たちが日々の練習で練り上げた音楽を キャンパスの仲間や市民に届ける「ホームグラウンド」。
ここでカラヤンは名誉博士として迎えられ、 学生たちに直接棒を振りました。
その瞬間、大隈講堂は、東京にいながらにして ベルリンとつながる特別な空間となりました。

一方、ベルリン・フィルハーモニーは、 世界最高峰のプロ・オーケストラが日々音楽を生み出す「聖地」です。
ワセオケは、ここでのコンクール優勝やツアー公演を通じて、 学生オーケストラとしては異例の存在感を示してきました。
ベルリンの聴衆の前で、自分たちの音楽を堂々と響かせる経験は、 団員一人ひとりにとってかけがえのない財産となっています。

これからの「ベルリン」と「早稲田」の架け橋

カラヤンの逝去から年月を重ねた今も、 早稲田大学とベルリン・フィル、そしてベルリンという街との縁は 途切れることなく続いています。
ワセオケはヨーロッパ公演を重ねるたびにベルリンを訪れ、 ベルリン側もまた、日本公演や教育プログラムを通じて 早稲田の学生たちと接点を持ち続けています。

かつてカラヤンが、ベルリン・フィルとともに世界中を飛び回り、 録音・映像・放送によって音楽を届けたように、
いまや学生オーケストラであるワセオケの演奏も、 配信や録音を通じて世界各地に届く時代になりました。
そこには、「プロ」「アマ」という枠を超え、 音楽を通じて世界とつながろうとする早稲田大学の精神が はっきりと息づいています。

カラヤンとベルリン・フィル、そして早稲田大学交響楽団。
この三者の物語は、過去の栄光の記録であると同時に、 これからどのような形で新たなページが書き加えられていくのか―― 未来へと開かれた物語でもあります。
大隈講堂とベルリン・フィルハーモニーという二つの舞台に刻まれた記憶は、 これからも新しい世代の学生たちの手で更新されていくことでしょう。

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